「▼ 匿名の人間による「デモクラティックな暗殺」
橋川文三は、朝日の遺書を分析してこの暗殺事件の質的な新しさを指摘している。
(略)
ここに例示されている紀尾井坂の変(大久保利通暗殺)の実行者は、旧武士階級という身分を代表して大久保を斬った。あるいは、より近い時代の伊藤博文暗殺事件(一九〇九年)においては、安重根は朝鮮民族を代表して伊藤を討った。
しかるに、朝日平吾は、当時の日本国内のいかなる特定の社会集団のアイデンティティに依拠するわけでもなく、「真正の日本人」という抽象的立場の自覚を徹底することによって、言い換えれば、米騒動において蜂起した無名の怒れる大衆と同様の「匿名の人間」として、テロを実行したのである。
朝日の凶行は、言うなれば「デモクラティックな暗殺」であったのだ。
明治の「理想の時代」の終焉以降の時期において、実存的飢餓感を痛切に感じた煩悶青年が苦悩からの解脱を志向して政治テロに至るという道筋の原型がここにあると橋川は見ているが、こうした成り行きの典型が、カリスマ的宗教者であった井上日召が率いた、後の血盟団事件、および五・一五事件である。(略)
▼「国民の天皇」の演出
そして、ここにおいて注目すべき最大の要因は、「天皇が伝統のシンボルよりも、変革のシンボルと見られ始めたところに」こそあるだろう。(略)
近年進んできた大正天皇研究によれば、大正天皇は、かつて定説的に考えられてきたような生来の精神薄弱だったのではなく、病弱ではあったものの、即位以後のストレスを主要原因として体調を悪化させたと推論されている。(略)
皇太子、後の昭和天皇には、国体の統括者たり得ない大正天皇に代わって、明治天皇の再来としての役回りが政治的に期待されていたのである。(略)
第一次世界大戦を契機としてヨーロッパ諸国で起こった君主制の没落・廃絶は、国民国家の統合装置であったはずの君主が、逆に統合を破壊する張本人として名指しされたために生じた事態であった。(略)
してみれば、君主制を国民統合の装置として再編成するために、「国民の天皇」を演出する方向へと、支配権力の側は舵を切る外なかった。(略)
それは、「国民の天皇」もまた国体の新たな時代に即した存在様態であったのだから、止揚し得ない矛盾であり、それは二・二六事件において爆発することとなる。」