読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「5 北一輝と「国民の天皇

北一輝明治維新観と天皇制論

天皇制=絶対主義という講座派の図式と、明治維新=市民革命という労農派の図式が対立するはるか以前に、労農派的な明治維新把握をきわめて徹底したやり方で打ち立てていた人物がいる。北一輝である。(略)

 

 

 

しかも、驚くべきは、北がこの理論の骨格を、大著「国体論及び純正社会主義」によって完全に打ち立てたのは、一九〇六年、北がわずか二三歳の時であった。(略)

 

 

「公民国家」とは、つまり近代国家であり、国家自体の独立自存のために君主も国民もその一員として行動する国家である。そこにおいては、「君主をも国家の一員として抱合せるを以て法律上の人格なることは論なく、従で君主は中世の如く国家の外に立ちて国家を所有する家長にあらず、国家の一員として機関たることは明らかなり」。ここから分かるように、北は徹底した天皇機関説論者であった。

 

 

 

北に言わせれば、明治維新による封建制の廃止から大日本帝国憲法の制定に至る過程を経て、日本の国体は紛れもない「公民国家」となったのであり、それにもかかわらず、万世一系の標語によって、あたかも日本の国土を天皇の所有物であるかの如くに論じる国体論は、人類の発展史に逆行する「復古的革命主義」なのであった。

 

 

このような北の明治維新観と社会進化論は、政治的にラディカルな含意を持つ。すなわち、国家が「公民国家」的状態を成立させ、さらにそれが一層高度化することによって、貧困が撲滅され、社会的平等が実現し、犯罪はなくなるという。さらには、このように解放された人間が個性を全面発達させて真善美を加え、ついには「人類は消滅して「神類」の世となる」、という希代の奇想家シャルル・フーリエを思わせる壮大なヴィジョンが語られる。(略)

 

 

▼「国体論及び純正社会主義」への反響

国体論及び純正社会主義」は、発刊五日後に発禁処分を受けるが、河上肇や福田徳三らから熱い注目を浴びる。(略)

こうした高い評価にもかかわらず、というよりむしろそれゆえに、北は要注意人物となり、社会主義者たちとの交流の為に、大逆事件でも逮捕される(後に釈放)。

 

 

 

超国家主義運動のバイブル

その前後から北一輝は、中国革命同盟会に加わり、釈放後には中国へ渡って辛亥革命に身を投じる。(略)

北は、日中の板挟みに苦悩するなかで、一九一九年、上海にて「国家改造案原理大綱」を執筆し、翌年帰国する。(略)

 

 

 

帰国後の北は、大川周明らとともに国家改造運動に携わり数々の陰謀に関与するが、その一方で、一九二三年に「日本改造法案大綱」と改題のうえ出版された「大綱」は、超国家主義運動のバイブルとなり、とりわけ陸軍皇道派青年将校たちを惹きつける。

 

 

その果てに起きたのが、一九三六年の二・二六事件であった。北一輝は、純然たる民間人であり、このクーデターには何らの具体的な関与をしていなかったにもかかわらず、逮捕され軍法会議にかけられ、翌年処刑された。

 

 

二・二六事件の「理念」

つとに指摘されるように、日本の昭和期ファシズムは、ドイツならびにイタリアのそれとは、相当に内実を異とする。最重要の相違は、明確なファシズム革命のようなものがなく、既存の国体イデオロギーがそのまま強化されるかたちで、超国家主義へと展開したという点にある。ゆえにそれは、「いわばなしくずしの超国家主義化」であったとしばしば評される。(略)

 

 

 

彼らの言う「妖雲」とは、いわゆる「君側の奸」、天皇の本来の徳政が実行されるのを私利私欲のために邪魔している重臣政党政治家・財閥・軍閥等々である。(略)

それは、大日本帝国の「天皇の存在を統合原理とする」という原則、もっと言えば「天皇だけが統治の正統性を担いうる」という国体の掟を侵さないかたちで―その掟と正面対決したコミュニストたちは挫折した―、統合の原理を実質的に変更しようとする試みであった。(略)

 

 

しかしながら、この心情に対する天皇の反応は、彼らにとってあまりに過酷なものだった。クーデターに対し、最も非妥協的で決然たる態度をとったのは、昭和天皇その人だった。(略)

 

 

昭和天皇が、その長い生涯においてこの時ほど強く怒りを表に出したことはおそらくなかった。」

 

 

 

 

 

 

 

(略)