読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「▼ 磯部浅一における国体

青年将校のうちで北一輝の理論を最も強く信奉していたと見られる磯部浅一は、天皇が自分たちに共感するどころか激怒していることを知り、「獄中手記」

に、天皇への激しい呪詛の言葉を書き連ねることとなる。(略)

 

 

磯部浅一が遺した猛り狂ったテクストは、後に三島由紀夫をも魅了することとなる。

三島が言うには、磯部の「最も忠良なる天皇の臣」から「国体への叛逆者」への転身は、国体概念そのものに含まれた二重性がもたらしたものだった。

その二重性とは、ほかならぬ本書で論じてきた、明治憲法における「天皇機関説の国体」と「天皇主権説の国体」である。(略)

 

 

 

 

その結果、あらためて神聖化された国体は、「道義」の名において(大東亜共栄圏、八紘一宇)、無謀極まる戦争を決行し破滅する。

 

 

▼「国民の天皇」が挫折し、「天皇の国民」に回帰する

北一輝の「国体論及び純正社会主義」は、これとは全く逆の「密教による顕教征伐」の試みにほかならなかった。してみれば、北=磯部において、天皇信仰が「近代的民主国日本の完成」の大義に勝るはずがなかった。

 

 

しかし、三島の見るところ、天皇が「変革のシンボル」たりうるのは、天皇が「国家機関としての天皇」として現れる時ではもちろんなく、「道義国家」の首領として現れる時である。この時にこそ、「天皇信仰自体が永遠の現実否定」たりうるのであり、その近い起源は幕末の尊皇攘夷イデオロギーにあるという。

 

 

 

つまり、まとめるならば、北=磯部の抱え込んだアポリアとは、機関説的天皇(国民の天皇)を実現するためには、「神聖にして侵すべからざる」天皇を奉じなければならないという矛盾であった。(略)

 

 

 

生命を賭けた磯部らの行動は、無論「道義」によって動機づけられていた。そして、その動機の調達先は「天皇信仰」という「土人部落」のイデオロギーであるほかなく、天皇への「恋闕」の情を燃料として、天皇自身による国体の変革を期待した行動へと踏み出した。

 

 

 

ここにおいて、北=磯部は「近代的民主国日本」を実現するという「道義」と、天皇が天壌無窮に統治する国であることそのものが「道義」である、という実際は別物である二つの道議を強引に結合させた。

 

 

 

後者の道義は当然内容的には無であり、実質的には天皇との距離が道義の所在を決めることとなる。体現する道義が実質的に優れているから天皇を獲得できるのではなく、「玉を握っている」ことそのものが道義の究極的根拠となるのである。(略)

 

 

 

▼ 昭和天皇は何に激怒したのか

それにしても、二・二六事件の時、昭和天皇は一体何に対して激怒したのであろうか。

天皇は、事件を指して「日本もロシヤのようになりましたね」と側近に語ったと伝えられるが、それは本質を衝いていた。(略)

 

 

 

逆に言えば、「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス」の言葉に明瞭に表されているように、天皇にとっては、自らに距離の近い者を害することが、その理由の如何を問わず、絶対に許し得ないことだった。

したがって、「天皇との距離の近さ」が国体の「道義」の源泉なのである。(略)

 

 

 

しかし、時によっては、「忠義」の名のもとに、国民は天皇のあずかり知らない所で「道義」を打ち立て、それに基づいて行動する。言い換えれば、主体性を持ってしまう可能性があることを、二・二六事件は示した。

天皇が激しく嫌悪し、避けようとしたのは、まさにそのような事態だったのではないか。(略)

 

 

拒否権の発動はより悪い結果をもたらしたに違いないという推論は、当たっているのかもしれない。それは賢明な認識であったとすら言えるのかもしれない。

しかし、仮にこの推論が正しかったとすれば、一体、この天皇の帝国はどんな国だったというのだろうか。そこには天皇にしか道義がない、生身の天皇の他にどこにも道義があることを期待できない、そんな虚しい国であったことを、天皇自身が証ししているのではないのか。(略)

 

 

敗戦後に太宰治はこう書いている。「東條の背後に、何かあるのかと思ったら、格別のものもなかった。からっぽであった。怪談に似ている」。その空っぽの場所は、埋められることを待っていた。「青い目の大君」が―すでに見たように、まさに天皇との距離を縮めることによって―それを果たしたのである。」