読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「3 明治の終焉

▼「坂の上の雲」の先の光景

立憲政体としての体裁をとにもかくにも整えた大日本帝国は、日清・日露戦争の勝利によって本格的な帝国主義国家の地位を獲得するに至る。一九一一年には、幕末以来の悲願であった不平等条約の改正も完了する。(略)

 

 

 

一九〇〇年前後から労働運動が勃興し始め、一九〇一年には社会民主党が結成されるが、政府は即座にこれを禁止する。こうした運動を領導した社会主義者無政府主義者たちの多くが、キリスト教からの影響を受けていたが、確立された国体と最初に衝突したのがキリスト者内村鑑三であったことは示唆的である。(略)

 

 

▼転換期の必然性

(略)

しかし第二に、大逆事件の発生にもかかわらず、時代は大正デモクラシーの時代へと転換する。

明治の末には大正デモクラシーの風がすでに吹き始めていた。大逆事件を生き延びた社会主義者無政府主義者たちは、一時「冬の時代」を経験するものの、労働運動の本格的な始まりと一九一七年のロシア革命にも後押しされるかたちで思想・運動両面で昂揚期を迎える。

 

 

一九一一年には青鞜社が結成され、女性解放運動の画期となることにも見て取れるように、維新以来の近代化による国家の独立の維持という大目標において一定の成果が上がった時、それまで自己主張の手段を持たなかった社会的諸集団が続々と声を上げ始めるという趨勢を、止める術はなかった。

 

 

 

何んと言っても、国民大衆は、この目標の達成のために究極の犠牲、血の犠牲を払い(日清・日露戦争)、重税にも耐えてきたのである。犠牲を払う義務の一方での無権利という状態を背景とした怒りは、一九〇五年のポーツマス条約締結をきっかけとした日比谷焼き打ち事件においてすでに爆発していた。

 

 

▼乃木将軍の死

そうしたなかで、明治天皇が一九一一年に没する。明治天皇の死は、それ自体ひとつの時代の終わりを印した出来事ではあっただろうが、それ以上の巨大な衝撃力を持った象徴的な出来事は乃木希典と婦人静子の殉死であった。(略)

 

 

実際乃木は、日露戦争後すぐに死のうとしたが、明治天皇から思いとどまるよう諭された。「死は易く生は難し今は卿の死すべきの秋(とき)に非ず卿若し強ひて死せんと欲するならば宜しく朕が世を去りたる後に於いてせよ」と言われ、その言葉に文字通り従ったと解釈かのうだからである。

 

 

だが、そもそもなぜ、乃木において天皇への忠誠が度外れたかたちで絶対化されたのか。封建社会の君主への忠誠がその対象を移し替えただけであったのか。仮にそうであったとすれば、乃木は完全な前近代人にすぎず、殉死が漱石や鴎外といった当代きっての知性に強い感動を喚起することはなかったはずである。(略)

 

 

しかも、乱の勃発に先立って、弟は兄を前原陣営に引き入れようと幾度も説得を試みていたという。しかし、乃木はこれを斥け、深く愛した弟を死に追いやることになる。重要なのは、この時点で、乃木の採った選択に義がある保証はどこにもなかったことである。(略)

 

 

こうした場合、傷を抱えた人間がその後、傷を癒し心の安定を得て生きていくために求めずにいられないものは、あの時の自分の選択は正しいものであった、と保証してくれる正当化の論理である。(略)

 

 

この「論理」にこそ、明治に成立した天皇制が国民の統合作用において強い力を発揮し得た理由の核心が存在するように筆者には思われる。薩長藩閥政府が担ぎ出した天皇の権威は、新政府の中核となった旧下級武士が自己の権力を正当化するための見え透いた方便にすぎなかったという説明がしばしばなされてきたが、仮にそうだとすれば、藩閥政府からはじき出された勢力や旧佐幕派の系譜に属する勢力に対して、その統合作用は力を及ぼすことが到底できなかったはずである。

 

 

 

だが実際には「戦前の国体」が安定へと向かう過程で、天皇の権威は広まりつつ高まってゆく。

萩の乱における乃木の経験は、かつての同志(乃木の場合は親族まで)と敵味方に分かれ、これを討たなければならなくなるという革命に宿命的に孕まれる悲劇的な次元に関わるものであった。

 

 

 

幕末から西南戦争に至るまで、数多のこうした悲劇が発生した後に、いかにしても実現されなけれはならなかったのは、何らかの形での「和解」にほかならなかったはずだ。天皇が担うことを期待されたのは、まさにこの和解のシンボルではなかったか。

 

 

 

そして、革命によって流されたすべての血に対する贖いたりうるために、「天皇の正義」は、「不動の真実」でなければならなかったのであり、現実にそうである限りにおいて、明治の天皇制は統合作用をもたらし得る。(略)

 

 

乃木の殉死に対する最も辛辣な反応は、志賀直哉が日記に書きつけた「馬鹿な奴だという気が、丁度下女かなにかが無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方でかんじられた」というものだった。

 

 

 

この言葉には酷薄なものすら感じられるが、それでもやはり、やがて来る、治安維持法特高警察と間断なき戦争が国民の統合作用の事実上の主柱となってゆく時代に「乃木的なるもの」がどのように活用されることになるかを、言い当ててもいるのである。」