読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「「2 明治レジームの動揺と挫折

▼「臣民としての国民」から「個人と大衆」へ

第三章に述べた通り、日露戦争終結から大逆事件に至る時代は、「戦前の国体」の「形成期」から「相対的安定期」への転換期にほかならなかった。(略)

 

 

しかし、この転換期の時代に流れた雰囲気は、「安定した民主政治の幕開け」とは程遠い、不安感と焦燥感に満ちたものであった。ポーツマス講和条約への不満が爆発した日比谷焼き打ち事件(一九〇五年)後の時代の空気について、政治思想家の橋川文三は次のように述べている。

 

 

日本国民がほとんど三十年にわたって信奉してきた国家目標、もしくは人間目標に対して、はじめて漠とした疑惑をいだき始めたということであった。

 

 

(略)

権力側から見れば、この状況は「思想問題」としてとらえられ、これへの対処として、天皇を中心とした国家発展への一致協力を国民に求める戊辰詔書(一九〇八年)が発せられる。しかし、その効果は薄かった。(略)

 

 

 

▼「国民の天皇」の起源

(略)

この事件に対する世論の反応には、天皇制の両義性が色濃く表れていた。歴史家の伊藤晃は、北一輝の唱えた「国民の天皇」の概念を念頭に置きつつ、明治憲法そのものにおいても、「天皇が国民を<天皇の国民化>する」ベクトルだけでなく「国民が天皇を<国民の天皇化>する」というベクトルが存在していたと論じている。(略)

 

 

つまり君民一体、万民翼賛あっての万世一系だということだ。ここに国民は上も下も国家の認められた一員だという観念が生まれるとすれば、その媒介者天皇はまさに、国民国家形成の精神的「機軸」(伊藤博文)の位置にあったのである。「国体」はここで国民思想化されたのだ。

 

 

 

幕藩体制においては、身分制度によって「分際をわきまえる」よう命ぜられつつ分断され、せいぜい封建諸侯の領民という、空間的に狭隘な共同体の構成員としてのアイデンティティしか持ち得なかった人々が、近代国民国家の形成によって、都鄙貴賤にかかわらず「国家の認められた一員」(=天皇陛下の赤子たる臣民)としての拡大されたアイデンティティを獲得してゆくということが、明治期以来生じた出来事であった。(略)

 

 

 

 

このように、天皇によって承認された公民(=臣民)の翼賛、輔翼によってこそ国体が成り立つのだとすれば、たとえそれが幾重にも抑圧されたものであったとしても、明治憲法そのもののなかに、「国民が天皇を<国民の天皇化>する」原理が含まれていた。後に見るように、この原理の論理的帰結を誰よりも非妥協的に追及したのが北一輝であった。

 

 

 

▼明治国家自身による挫折

右の視角から見た時、大逆事件はある意味で「明治国家自身による明治レジームの挫折」として浮かび上がってくる。

何故なら、公式イデオロギーによれば、日本国民たるもの「天皇の赤子」として積極的に国体を翼賛すべき臣民であるのにもかかわらず、そうしないどころか、大逆の欲望を持ってしまう国民が存在することを大逆事件は明らかにした―しかもそうした存在をわざわざ捏造することさえもあえてして―からである。(略)

 

 

徳富蘆花幸徳秋水を擁護した講演「謀叛論」に言及して、伊藤晃は次のように述べている。

 

 

(略)

こういう明治維新からして、蘆花は、明治天皇には幸徳のような社会主義者たちを抱擁するところがあってほしい、また天皇は必ずやそうするであろうと考える。ところが現実には、幸徳たちは天皇の名による裁判で死刑になった。(略)

結局これは、天皇を取り巻く連中が天皇の徳を傷つけたものではないか。これが蘆花の強く主張したいところであった。

 

 

徳富蘆花の議論は、「戦前の国体」の「形成期」における福沢諭吉の「丁丑公論」(一八七七年、公表は一九〇一年)を継承するものとも見なせよう。

(略)

革命政権が革命の要素を絶滅させたならば、それは自己更新の機縁を失って必ず腐敗堕落する。こうした論理によって福沢は、明治国家は謀叛人となった西郷を抱擁すべきだと論じたのである。」