読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

歴史の中のイエス像

〇 国体論の途中ですが、松永希久夫著「歴史の中のイエス像」から少しメモしておきたいと思います。

私の疑問は、何故、キリスト教圏では、真実が重んじられる社会システムが作られたのに、仏教圏では、そうはならなかったのか…なのです。

仏教でも、嘘はいけないと教えられていると思います。儒教でもそうだと思います。でも、社会のシステムをそのように作り上げるとか、変えていくという動きや熱意は、キリスト教圏ほど、強くないような気がします…。

 

日本は、西欧の真似をしようとしたので、法律も政治も西欧の形を受け入れています。でも、その精神は全く受け入れず、型は民主主義のように見えても、その内実は、為政者の好きなように報道を牛耳り、司法を牛耳り、国民を誘導しています。

 

この「歴史の中のイエス像」はNHK市民大学4月ー6月期(1987年発行)のテキストです。放送は記憶がないのですが、私がキリスト教について読んだものの中では、一番わかりやすかったので、何度も読み返して、持っていました。

 

目次は

1 たったひとつの生涯から 2 イエスのはたらきかけ  3 イエスの教え

 4 イエス神の国運動  5 神の国とは?  6 神の国と国家  7 イスラエル回復の鍵  8 神への懐疑と希望  9 イエスの使命  10 イエスと弟子たち  11 十字架への道  12 復活とは?

 

となっているのですが、その中の 5 神の国とは? をメモしたいと思います。

 

「5 神の国とは?

エスの「神の国」理解

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」とのイエスの活動の与えた印象は強烈でした。イエスの活動は日に夜をついで行われ、彼も弟子たちも休息の暇さえなかったようです。

 

それだけに、敵対者も現れ、誤解は大きくなったのであります。しかし、イエス自身は、ガリラヤでの活動を終えると、そうした物情騒然たる中を、敵対者の本拠地であるエルサレムへと旅立ちました。ひと握りの弟子たちが行動をともにしていますが、「イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた」と記されています(「マルコ」10・32)。

 

 

しかし、イエスは、自身の「神の国」の理解によって、選ぶべくしてこの道を選んだのだと申しました。

そこで、とうぜん問題になりますのは、イエスは「神の国」の到来ということでなにを考えていたのか、また、なぜそのように考えるようになったのかということであります。今回から四回ほどは、その点に関して、もう少し掘り下げて考えてみたいのであります。

 

 

おもしろいことに、イエス神の国について多くの教えを語っているのですが、直接、神の国を定義しているものはないのです。多くはたとえ話というかたちで語っているわけですが、まず、そうしたものから手掛かりになるようなものを探してみましょう。

 

「「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育っていくが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈り入れ時がきたからである」。また言われた。「神の国を何に比べようか。またはどんな譬えで言い表そうか。それは一粒のからし種のようなものである。

 

 

地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝をはり、その陰に空の鳥が宿るほどになる」」(「マルコ」4・26-32)といったたとえ話があり、また

 

 

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また「見よ、ここにある」「あそこにある」などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」」(「ルカ」17・20-21)

といった言葉があります。

 

 

これらを読むと、イエスが考えている神の国とは、国家や政治形態を持った外面的なものではなく、内面的な、いわば目に見えない精神的なものという気がします。心あるいは魂といった人間の内側に関わる事柄だということです。たしかにそうなのです。しかし、留意すべき点は、それにもかかわらず、目に見える面もともなうということです。

 

 

いつの間にか内側から神の国が、本人も知らないうちに種がまかれるが、必ず成長して鳥の宿るような大樹となるというのです。神の愛、神の言葉がまかれるのですが、必ず、神との交わり、隣人との交わりの中で具体的な影響が形を取るということでありましょう。

 

 

内面性と外面性

キリスト教は、宗教のひとつであり、信仰とは心の問題、魂の問題だとよくいわれます。しかし、それは真理の一面であって、神の国はけっして政治形態をもつ国家と同一視はできませんが、内面的・精神的なものだけかというと、そうではありません。

 

 

注意深く言葉を使わねばなりませんが、社会・歴史・世界といったものの中に神の支配が実現するということは、単に目に見えない抽象的・精神的な領域だけではなく、社会を動かし、歴史を変え、世界を新たにする具体的な形にまで力を及ぼすものなのであります。

 

 

聖書が語っているのは、けっして魂の救いではありません。霊魂も肉体もひっくるめたからだの復活ということをいうのは、そのためであります。個人的な霊魂の救済宗教ではなく、霊魂不滅をいうのでもなく、体の甦り、新天新地の出現を語るわけで、それはとりもなおさず、この世界についても、この肉体についても、その全存在の救いを考えているということなのであります。

 

 

したがって、神の国は見えない領域に深くかかわっており、そこに源がありますが、見える形、現実の世界、歴史、人間でいうならば魂だけではなくて、その体をも考えているのです。内面の世界と外面の世界との双方に関係し、その決定的な要素が、”内面性に生命線(レーゾン・デートル)をもつ外面性”にあるという点に留意しておきたいと思います。

 

 

神の国の背景

さて、イエスの考えていた神の国、あるいは民衆の期待していた神の国、はたまた律法学者たちが考えていた神の国といったことを吟味するためには、どうしてもここで、その背景になっている旧約聖書神の国理解を考えて見ざるをえないのです。そこでその面にメスを入れてみることにしましょう。

 

 

新約聖書の二七冊の文書はイエスが死んで約100年以内に成立しました。しかし、旧約聖書の方は、イエス以前の一〇〇〇年以上のイスラエルの歴史を舞台にして事柄を描き、折々に成立してきた三九冊の文書は、長い歴史の経過の中から生まれて来たという特徴をもっています。

 

 

 

つまり、旧約聖書神の国理解と言っても、長い歴史の流れの中で、神の国の理解について、様々な意味合いの変化が見られます。また、それをとらえる視点の変化があります。このように多様な理解の変遷があるからこそ、イエスの同時代においても、神の国をどうとらえるかについて相違が生じ得たのです。問題は、多様な変遷にもかかわらず、その中を貫いているものをイエスがどうとらえたかであります。

 

 

 

イスラエルとは神の支配

旧約聖書の中に「神の国」という語を探しても見当たりません。それでは旧約聖書においては神の国という概念はなかったのかと申しますと、そうではありません。じつは、イスラエルという語は、言語では「神支配し給う」あるいは「神の支配」という意味なのです。

 

 

 

イスラエルというと、今日では一九四八年に独立したイスラエル共和国のことをすぐ思い浮かべますが、その古い古い先祖が古代のイスラエルの民なのであり「神の国」の実態をなしていたのです。

旧約聖書の中ではイスラエルーこれをまた種々な言い方で呼んでいますが― が中心課題であり、それがどのようにして成立し、発展し、崩壊していったか、またそれを回復・再現するためにどのような努力が積み重ねられたかが、その総主題であるといってもよいのです。

 

 

 

つまり、旧約聖書は、その全巻をもって神の国について語っているといってもいいのです。したがって、それを説明し把握するだけで優に二年や三年はかかります。このようなイエスについて語るという一二回の講座の中で、旧約聖書まで扱うのはある意味で乱暴なのですが、イエス神の国理解を知るのに不可欠であるがために、それとの関係で最小限度、知っておかねばならぬことを、簡潔に述べることにします。

 

 

 

出エジプト

イスラエルの起源は、出エジプトに求められます。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフといった先史時代の族長にまつわる物語は「創世記」に残されていますが、有史時代の始めは、モーセという指導者のもとにエジプトからの大脱走が行われたところに出発します。

 

 

 

紀元前一四世紀ですが、エジプトのパロ(古代エジプト歴代の王の尊称)の圧政下で奴隷状態にあり、スフィンクスやピラミッドの大土木事業に酷使されていた人々が、その人びとを救うようにとの神の呼びかけによって指導者となったモーセのもとに集団で脱走し、アラビヤの砂漠を越えて今日のパレスチナに移住します。この事件については旧約聖書の二冊目におかれている「出エジプト記」に記されています。

 

 

 

先刻、少しふれた族長たちの話は、一冊目の「創世記」の第一二章から最後までに記されています。一言で言うと、アブラハムが神の呼びかけを聞いてこれに応え、父母を離れてメソポタミア地方を旅立ちます。そして神はアブラハムとその子孫にカナンの地を与えると約束します。その後、アブラハム、イサク、ヤコブの三代にわたって、手に汗握るような事件が次々と展開していきますが、ヤコブの晩年に大飢饉があってエジプトに難を逃れ、移住してきます。

 

 

 

これを歴史的に跡付けてみますと、エジプトの古代朝・中王朝・新王朝は例外なしにハム系の民族の王朝ですが、ある一時期だけセム王朝が支配したことがあります。それはヒクソス王朝(紀元前一七二〇~一五五〇年)で、ヤコブがエジプトで大臣になっていた子供のヨセフを頼って移住し栄えたのは、この時期と考えられます。何故ならばセム系のヤコブやヨセフはヒクソス王朝であるからこそ優遇され、保護を得たと考えられるからです。

 

ヒクソス王朝が倒れ、またしてもハム系の王朝が次々と立ち、セム系の人々は使役層として酷使されるようになり、第一九王朝のラメセス二世というパロのとき、その頂点に達しました。その紀元前一三~一四世紀ころに出エジプトという事件が起こったのであります。

 

紅海の奇蹟と十戒にもとづく契約

さて、出エジプトを内容とするイスラエルの起源は二つの大きな中心をもっています。その一つは、紅海の奇蹟と呼ばれるもので、モーセの率いる人々が脱走していくのを、これを喜ばぬパロが軍隊を送って追跡させ連れ帰ろうとします。ところが、モーセの祈りにより、目の前にあった海が二つに分かれて人々の逃れの道が備えられ、追跡してきたエジプト軍がそこに至ると、分かれていた海が一つとなって追跡の手を断ったという出来事であります。

 

 

重大なことは、彼らがこの自然の大驚異の背後に神の手を見たことであります。

人間的な可能性を超えた神の救いのわざとして彼らはこの事件を心に刻んだのであります。死と滅び、あるいは奴隷の縄目以外のなにものをも予想しえなかったときに、ただ神の力によって、生を与えられ、新しい未来が拓かれた。そこに彼らは、神の恵み、神の救い、神の支配を経験したのです。

 

 

 

もう一つの中心は、紅海の奇蹟ののち、荒野の四〇年の彷徨を経て、彼らは約束の地カナンに入ってゆくのですが、その砂漠の旅の出発点に際して、彼らはモーセを媒介に与えられた十戒を内容とした神との契約を結んだという出来事であります。十戒とは、神と人間との関係についての第一戒から第四戒までと、人間とその隣人との関係についての第五戒から第十戒までとの一〇の約束から成り立っています。

 

 

つまり、出エジプト・紅海の奇蹟ということを経験した人々が、自分たちを救ってくれた神との関係において自分たちは今後歩んでいこうと考え、神とのあいだに締結した契約の内容が、神から命ぜられている一〇の要素に従い、これを守るというかたちで示されているのであります。

 

 

 

この契約の中心は、神と人間との関係、いわば信仰の領域と、人間同士の関係、倫理の領域とから成立していますが、これが神と民との生ける愛と信頼の組み合わさったものとして表現されていることに特色があります。先にイエスが律法を一言で要約すれば「神を愛することと、己の如く隣人を愛することだ」とした点にふれましたが、この十戒にふれていることがわかります。

 

 

 

エスはけっしてユダヤ教を否定したり、律法を否定しようとしたのではありません。むしろ、十戒の中心をとらえて、そこに立ち返らせようとしているのだということができます(「マタイ」一五・17-20参照)。

 

 

 

その関連で注意を喚起したいのは、十戒の布告に先立って、「私はあなたの主、神であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という宣言がなされていることであります。これは、神の人々への呼びかけであります。その応答として一〇の約束が求められているのです。

 

 

憲法で言えば第一条……第二条……という条文の前に「前文」があります。それが憲法の精神、あるいは憲法の基盤になることを述べているのであります。十戒も同じであって、第一戒から第一〇戒までの条文に先立って、律法の精神・基盤が前提として掲げられているのです。イエスは、律法を要約するに際して、「イスラエルよ、聞け。主なる私たちの神は、ただ一人の神である」といっていますが、これも十戒に対応しているのです。

 

 

つまり、十戒に先立って神は、出エジプト・紅海の奇蹟を想起させ、そこで生き生きと成立した神の愛と民の信頼の関係に立って語っているのです。

十戒の原文はヘブル語ですが、この十戒の「~してはならない」という禁止命令は、元来の文法では断言命令 epexegetical imperative というかたちで記されています。その意を生かして訳してみますと、こんなふうになります。

 

 

「私は、あなたの神、主であって、あなたのエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。もしあなたがそのことを本当に知っているなら、あなたは私の他になにものをも神とするはずがない」。第二戒も同じです。「私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。もしあなたがその私の愛を知っているのであれば、あなたは自分のために偶像を造るはずがない」。以下、みな同じです。

 

 

 

人間関係の約束も同じことです。「私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。もしあなたがそのことを本当に知り、神の愛と信頼とを知っているというのなら、隣人を殺すはずがない。姦淫するはずがない。盗むはずがない。………」。

 

 

 

神との誓約共同体

この十戒を中心に契約を結んで成立した誓約共同体、それがイスラエル(神の支配)と名付けられたのであります。それがイスラエルの起源なのです。神の国とは何よりもまず、神の愛を信じ、それに対する応答として神との交わり、隣人との交わりを愛と信頼によって保つ、そういう共同体として出発したのであります。

 

 

ここまで注意深く言葉を用いてきたつもりですが、エジプトから脱走してきた人々はまだイスラエル民族にはなっていません。イスラエルの先祖たちと呼んで来ました。しかし出エジプトを経験して、十戒による神との誓約をした人たちが、これからイスラエルとして歴史を担って歩み出したのです。そこからイスラエルが成立したのであり、彼らは同じ信仰の者同士としか結婚しませんから、イスラエル民族が起こってきたのであります。

 

 

もちろんエジプトから脱走してきた人は、多くセム系であり、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫たちです。その意味では血族的な関係がなかったとは言えません。たしかに家族、部族という単位で行動していたでしょう。しかし、モーセの指導下において契約を結んだ神誓同盟が民族になっていったのであります。

 

 

大切な点は、そこにできたイスラエルは神との生きた呼応関係を前提にした誓約共同体として出発した、それが本来の姿であったということであります。これがイエス神の国をどう理解していたかという問いと深くかかわることは、よくおわかりになるでしょう。」

 

〇 「6 神の国と国家」からも、少しだけメモしておきます。

 

「6 神の国と国家

(略)

士師とは聞きなれない言葉ですが、武士の士と教師の師を結合させたもので、軍事的指導者であり、かつ教育的指導者でもあるという面から出てきた訳語です。(略)

 

 

モーセヨシュアも、そしてギデオンとかサムソンとかいった名は聞き及んだ方もあるでしょうが、代々の士師たちは、神から召されてこれに応え、イスラエルの緊急事態のたびに指導権をとった人々で、そうしたかたちでイスラエルが治められていたといえます。つまり、指導者たちは直接に神の言葉に従うというかたちで民を指導したわけで、神の直接支配ともいうべき、生き生きとした神と民との関係が保たれておりました。

 

 

王国形成とその問題

(略)

士師の時代には敵が攻めて来てから、畑を耕したり羊を飼っていた日常の家業を捨てて武器をとり、戦場に赴く。そして、戦いが終われば、元の生活に復したのです。(略)

つまり、常備軍を必要とし、職業軍人を雇っておくためには税金が必要になり、税金を集めるためには官僚組織が必要となり、この全体を総轄する専従の指導者、すあんわち王が必要になったというわけです。

 

 

王制の問題・国家の問題

(略)

サムエルは、王制をとると、徴兵制・税制・課役といったことで苦しみ、娘たちを王のハーレムに奪られても何もいえなくなるぞと指摘します。国家のためにという大義名分によって、個人の自由や権利が圧迫・喪失されるという点を洞察しているのです。それは専制君主制でなくとも同じです。

 

 

民主主義国家であれ、社会主義国家であれ、国家(共同体)の利益が優先されるときに、必ず個(社会の形成要素・個人)は抑圧されます。個の利益が優先されれば、国家(共同体)は崩壊します。この共同体と個の相克の問題が古代から人間の深刻な課題で今日におよんでいます。

 

 

 

個が栄えると、同時に共同体が栄えるという事実は、古代ギリシアアテネと、士師時代までのイスラエルのみに見られるというのは、大切な指摘です。(略)

 

 

いまや王が恒常的な指導者になり、その位置が保証され、さらに世襲制になってゆくと、個々の王が信仰的に、いつも神の呼びかけに正しく応えてゆく指導者であればよいのですが、神の声を聞かず、また従わない指導者であれば、イスラエルという名の国家は存在しても、神の支配という実態は失われてしまう危険性があるわけです。

 

 

 

そして、それは指導者が王であろうと大統領であろうと中央委員会であろうと本質は変わりませんから、国家という形態をとったときに内包された危機ということが出来るのであります。国家秩序の指導者たちの姿勢が共同体の生死を決定するのです。(略)

 

 

 

イスラエルと国家

(略)

このあたりに、イエスと同時代のユダヤの民衆が神の国の到来という期待をもち、メシヤを待望した時になによりもダビデの王国の再建と、ダビデの子、王としてのメシヤを考えたのは無理からぬものがあったともいえますし、他方、イエス自身が考えていた神の国の到来は、国家とは切れたところ、本来のイスラエルの、神の愛の呼びかけに応え隣人を愛するような生き生きとした交わりを本質としていたとも推測されるのであります。

 

 

 

王国時代のイスラエルの顕著な現象は、イスラエルという国家と神の国という内実が一致しているかどうかという点に鋭い目を注ぐ人々が起こったということです。神から召され、これに応えて民を治めているはずの王とは別に、王を見張り、イスラエルという国家の―内実と形との―自己矛盾・自己分裂を指摘しるために、神に召され、神の言葉を託されて語るという人々が出てきました。それが預言者です。(略)

 

 

 

見えざる偶像礼拝

王国時代の後半になりますと、預言者たちの批判は、さらに透徹したものになり、見える偶像礼拝だけではなく、見えざる偶像礼拝にまでおよびます。いや、その方が当面の中心問題になります。(略)

 

 

 

見えざる偶像礼拝とはなにか。他宗教の神々を拝むというのではなく、イスラエルの神ヤハウェを拝み、宗教的な生活を送っているのであります。エルサレムに、モーセ十戒を刻んだ石の板を納めた至聖所があり、そこに神がおられるということで神殿が建てられ、礼拝は盛んに行われていたのです。ところが、そういう形でじつは偶像礼拝が行われているのだと、預言者たちは王や民を弾劾したのであります。(略)

 

 

 

現代的にいえばアモスは社会正義を問題にしたわけですが、彼は、これを律法の指すイスラエル(神の支配)の内実を失った姿として問題にしたのです。

つまり、エルサレム神殿で礼拝が賑わって神と民との関係はつながっているようだが、隣人との関係が破れている以上、神の愛・神の呼びかけには真実には応えていないのだと指摘したのです。

 

 

別の言い方をすると、指導者や富者は金や地位といったものを神とし、真実の神を忘れている。いや、自分たちが自己の利益を追求しているのを、見せかけだけの神殿礼拝で包み隠し、正当化している。それは、神を礼拝しているようではあるが、結局は、御利益宗教の次元に引きずりおろし、神を自己の利益に仕える偶像にしてしまっているのだと言ったのです。

 

 

 

国家としてのイスラエルが神の支配としての内実を失った。それは指導者の罪・民の罪のゆえで、その罪は裁かれざるをえず、国家の滅亡は避け難く、民の離散も免れ難いというのが預言者たちの語りかけの基調であり、その裁きのかなたに神の赦しと救いを語ってゆくようになるのであります。

 

 

罪とは?

さて、ここで聖書でいう罪とはなにかを明らかにしておきましょう。(略)

すなわち、人間が最初は「全地は同じ発音、同じ言葉であった」という点から出発します。(略)

 

 

 

 

神がそれを見て、これを阻止したと物語は語ります。人間が陥った自己神化・自己絶対化を裁いたのであります。その結果が言葉の乱れであったというのです。

それは別段、神がなにかするまでもないことです。実は人間が自己を絶対化し自己を神とするということが始まった時、人間相互のあいだに話が通じ合わなくなったということなのです。

 

 

家庭でも職場でも、互いに自己絶対化する人があれば対話は不可能になり、コミュニケーションの欠如が起こる。したがって、言葉の通ずる者同士が全地に散っていったと、この物語はしめくくっているのであります。

罪とは、このことなのです。神と人間との正しい関係が崩れた、それは人間が神を軽視し、無視・抹殺し、自分を神として絶対化することですし、自分が世界の中心であり、主であり、他の人々はみな自分のいうことに従い、自分に奉仕すべきだと考えることです。(略)

 

 

 

ここに人間の根本的な問題があります。人間の内に巣くうエゴ(利己心)の問題、それを神との関係でとらえなおすと聖書でいう罪の問題なのですが、これはイスラエルだけの問題ではなく、人間の普遍的な問題であります。エゴのない人間はいない。原罪とはこの事実を意味しているのであります。

 

 

 

人間相互の愛と信頼の交わりを根本的に成り立たせなくするもの、それが「死にいたる病」、罪なのです。

逆にいえば、罪がイスラエル(神の支配)を成り立たせなくしている。これがイエスの課題だったのではないでしょうか。」

 

〇 共同体の神が「人間相互の愛と信頼の交わり」が大切だと「命じる」。互いに相手を大切にし合うのは、問答無用で当然のことだという価値観(哲学)がある社会と、あるのはただ「象徴天皇」だけの社会。

それぞれが、それぞれの価値観で好きなように生きることが大切で、むしろ大切なことは、何も言葉にしないようにという空気が満ちている社会。

 

 

マインドコントロールで、価値観を刷り込まれるのは、拒否したくなります。

でも、本当に本当に個々人が「好きなように生きる」ためには、互いに相手を大切にしあうというという価値観が隅々まで行き渡っている社会がなければ、ならないと思うのです。

 

嘘やインチキでマインドコントロールされないためには、真実が大切だという価値観が必要です。隠蔽や改ざんや不公正な世論誘導が行われない社会が必要です。

 

大事なことや真実を主張する時、偉そうに…とか上から目線で…とか言って

大切な問題まで相対化する態度は、良い社会を破壊する良くない態度だと思いますし、

そのようなことが行われている時、沈黙しているのは、その破壊に加担していることになると思います。