読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「白鳥博士は「神代史」をどう解釈したか

 

さてここで問題になるのはまず第一に、白鳥博士がどのような歴史観を持ち、日本の「神代史」をどう解釈されたかであり、第二は、それを何の妨害も掣肘もなく、裕仁親王すなわち後の昭和天皇に教えたか否か、という問題である。

 

 

これらの問題で、少々わかり難いのは、まず第一の点では、杉浦重剛の倫理の場合のような「歴史御進講草案」といったものが残っていないからである。「白鳥庫吉全集」末尾の「著作目録」を見ても、「未発表原稿」の中にさえ、それらしきものを見出すことはできない。

 

 

さらに、そのほかの博士の論文は内外の学術専門雑誌に発表されたものがほとんどであり、その全部を通読した上で、「白鳥史観」ともいうべきものを把握することは容易ではない。(略)

 

 

少々余談になるが、白鳥博士がヨーロッパに留学されたころが、大体、聖書への高等批評(ハイヤー・クリティーク)がはじまる時期である。いわばヨーロッパは自らの聖典に自らメスを加える時期に来ていた。

 

 

こういった当時の学問の傾向は、白鳥博士に強い影響を与えたのではないかと思う。

というのは、聖書にメスを加えて、資料別にばらばらにして研究するということ、さらにそれがエジプトやバビロニアから何を借用し、またどういう影響を受けて成立したかを徹底的に研究することは、別に、聖書が西欧の精神史において実に貴重な役割を演じていることを否定しているわけではない。

 

 

この考え方は、白鳥・津田両博士に共通している。しかし、こういう考え方への抵抗が西欧にも日本にもあったことは、また、否定し得ない事実である。

 

 

 

「神代史」研究に国学者が果たした役割

 

白鳥博士には「皇道について」という古めかしい題の未発表原稿があり、その中に次のようにある。

「すべて国に道のあり教のあるのは、あたかも人に精神のあるのと同様なことで、国家存立の上に片時も相離れることは出来ませぬ。支那儒教があり、印度に仏教があり、西洋に耶蘇教があります如くに、皇国にもまた固有の道がなくてはなりませぬ」

 

 

として、その中心は天皇だから、

「これを天皇教と称しても差し支えはないのであります」と。

 

 

だが、そのすぐ次に、

「神代史とはその文字の示す如くに、神々の記述であります。「日本書紀」には、特にこの巻を神代史と題してあります。しかるに従来の学者がこれを弁えないで、この巻を普通の歴史と心得ていたのは、大いなる謬見と言わねばなりませぬ。

 

 

もしもこれを普通の歴史と見做す時は、その全篇は、ことごとく不可解のものとなってしまうのでありますが、これを上代人の信仰、信念と考えるときは、そこに何らの矛盾もなく、また何らの不思議もないのであります」

 

とも記している。この二つは白鳥博士にとって何の矛盾もない。もっとも前の記述を「天皇は国民統合の象徴」と言い改めれば、表現が古いというだけで、別に戦後と変わりはないとも言えよう。(略)

 

 

白鳥博士は「国学は本居(宣長)氏によりて、ほとんど絶頂まで登り込められて、もはや、その上に出ことは出来ない」とされ、さらにこれをシナ・インドに広げ「これを神典に引きつけて説明するのに努めた」

 

 

平田篤胤は、国学には裨益(貢献)した点があるかもしれないが、「その結論にいたっては、ほとんど児戯に属するもので、何ら価値のないものになってしまった」とされる。

 

 

いわば国学は、宣長の業績をもって終わったのであり、もはや「神代史の新研究」に資するところは全くないと断定される。」