読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「明治における「神代史」研究の状況

 

では「明治時代の合理的説明」ではどうであったか。白鳥博士はまず次のように記されている。

「明治の代になって、西洋の文物が輸入せられ、国家の文運は各方面において全く面目を一新するほどに発展を遂げたのであるが、言語の学問は、ほとんど停滞して何ら進歩の成績を見ない。したがって神代史の研究なども、徳川時代ありさまで、別に新しい意見が発表せられなかった」

 

 

この記述は、明治初年の一面を表わしている。外人教師に日本の歴史についてたずねられた学生が「日本には歴史などありません」と答えて相手を驚かせた時代である。これとよく似た一時期が戦争直後にもあったが、明治にも過去を消して未来だけを見ようとする一面があった。(略)

 

 

 

当時は「言語学」や「神話学」などは「閑学問」で、そんなものは後回しで、ひたすらヨーロッパに追いつくのが学問の任務のように考えられていた。

 

新井白石を一歩も出ずに、ただ安直に「合理的に解釈しよう」とすればどうなるか。それは「神代史の神とは人である。人であるから歴史である」という解釈になる。これはまことにおかしな話で「アダムとエバは人であるから創世記は歴史書である」というようなもの。(略)

 

 

「神代史が普通の歴史物語のように解釈されて、この現世の上に出来た出来事を、比喩的に書き綴ったものと考えられたから、日本人種も単純なものでなく、土着の出雲系の民族と、外国から進入してきた異民族とが存在し、今日の日本人はその混合融和した複雑なものと思われるようになった。

 

 

それとともに、神代史の上に活動している神々は、無論、普通の人間と解せられたから、神典の中で至高の神と記されてある天照大神でさえ、後世の天皇の如き人間と見做されたのである。

 

 

それで、もしもこの神を天ツ神と見る時は大不敬事と思惟せられることになった。何となれば、これを神と見ればそれは思想上の話になって、事実虚空のものになるからと信じられたからである。この見解は今日においても大なる勢力を有している」

 

 

「今日」とは博士が講義をされた昭和三年のことである。まことに面白いことに、この時点ではまだ「皇国史観」は出現しておらず、天照大神を「人」と見なければ不敬罪になりかねない状態であった。そしてこれを「裏返し」にして天照大神を天ツ神とすると、天皇もまた「現人神」になってしまう。

こうなったのは結局、明治における「徳川時代的で神話学抜きの一見合理的な解釈」が基本となっているであろう。

 

 

「しかるに近年になって、ようやく神話は神話であって歴史でないという事が了解せられてきたので、我国の神話も他国の神話と同様に取り扱われて研究せられるようになってきた。

 

 

それで追々と新しい意見が提出せられて、従来の合理的解釈とされたものが排斥せられるようになってきたのは、実に斯界の一歩として慶賀すべきことである」

と記されて「神代史に関する古来諸家の解釈」は終わっている。(略)」

 

 

白鳥博士は、信念のままに御進講出来たか

 

(略)

そこで第二の問題、すなわちそれを何の妨害も掣肘もなく裕仁親王すなわち後の昭和天皇に講義できたのであろうか、という問題が残る。(略)明治以降の日本が、全期間を通じて昭和十年代と同じであったと考えてはならない。

 

 

ただ乃木(希典)大将が学習院長になったとき、白鳥博士は少々心配であったらしく、ある種の了解を求めた。これは前記の「小伝」の筆者石田幹之介氏の話である。

 

 

「(略)乃木さんに神話と歴史的事実は別のものであるということを篤と生徒に話したいと思うけれども、了解しておいてもらいたいということを言ったら、乃木さんはまことにもっともだ、神話は神話で歴史事実は歴史事実だ、ということで――ちょっとみるとそういうこととは反対のようにも思われるんだけれども、よく了解してくれた、ということを私にお話しになったんですがね。(略)

 

 

ことに御学問所に行かれるようになりましてから、皇太子様にはうそのことは申し上げられない。だから神話は神話だ、それから本当の歴史事実はこういうことだ、ということを申し上げるのだ。それは私は俯仰天地に恥じないということを言っておられたと思いますがね」

            (「東方学報」第四十四輯)

 

(略)

 

 

ただこのことは、彼が神話を無視したということではなく、「神話は神話として」教えたということである。(略)

 

「(略)

神代の巻は神の話であって、これは我々の祖先が皇室に対して如何なる考えを有していたか、その信念思想の現われであります」」

 

天皇は、その講義にどう反応されたか

 

こういう教育に対して、東宮御学問所の教職員のすべてが賛意を表したか否かは明らかではない。だが、問題はそこにはない。要はこの教育に対して天皇がどう反応されたかである。(略)

 

 

というのは、それが天皇であろうとなかろうと、生物学者で歴史に深い関心を持っている人に、「神代史」を「神話でなく歴史だ」と信じさせることが出来るであろうか、という問題になるからである。(略)

 

 

天照大神から四代目の彦火火出見尊が兄の釣針を失い、これを探しに海底に下り、海神の娘豊玉姫と結婚し、三年逗留する。しかし望郷の念に耐えがたく、妻の豊玉姫とその妹の玉依姫を連れて陸地に帰る。豊玉姫は妊娠しており、海辺に上ると産気づいたので産屋を造り籠もる。

 

 

そして出産が終わるまで中を見ないように言うのだが彦火火出見尊は密かに見てしまう。すると出産の時豊玉姫は鰐になっていた。見られたと知った豊玉姫は、生まれた子と妹の玉依姫を残して海にもどり、海への道を閉ざしてしまう。このようにして生まれた子が彦波瀲武鸕ガ草葺不合尊で、やがて長じて叔母の玉依姫を妻として、生まれたのが神日本磐余彦、すなわち神武天皇である。

 

 

以上に要約した神話は、神話としては大変に面白いし、神話学的にはさまざまな問題を提起するであろう。しかし「日本産一親属一新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ中類の検討」を公刊された生物学者天皇が、これを歴史的事実だと信じていると思う人がいれば、私はその人の頭脳を疑わざるを得ない。

 

 

もちろん神話は無価値なものではないが、それは歴史ではない。天皇が歴史に関心を持たれたのは、もちろん、これを神話と峻別された白鳥博士の教育によるであろう。

 

 

 

そして「朕と爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、始終相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」は、いつかはっきりと言っておきたい天皇の自己規定であったであろう。事実、上記の神武天皇の出生神話が、天皇と国民との紐帯になるとは、考えられないからである。これが明確に出てくるのがポツダム宣言受諾のときである。

 

 

 

敗戦国に待ち受ける皇室の運命

 

だがそれに進む前に、天皇東宮御学問所で学ばれている間に起こった第一次大戦終結を振り返ってみよう。まず大正六年、ドイツ降伏前に敗北同様になったロシアのロマノフ王朝が倒れ、ついで翌七年、オーストリア・ハンガリア帝国が降伏、トルコ帝国降伏、そしてついにドイツ帝国の降伏となる。

 

 

降伏は同時に王朝の滅亡であり、国王は退位・亡命あるいは虐殺という運命に陥った。無条件克服をしてなお存続した王朝のないことを、歴史に深い関心をもっていた天皇が知らないわけではなかった。

 

 

 

「自分は、この時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となった時に、一体どうだろうか。かくの如き場合が到来した時には、総理(近衛)も自分と労苦を共にしてくれるだろうか」

      (「西園寺公と政局」)

前にも記したが、昭和十五年九月十六日、独伊との三国同盟締結が閣議で決定されたとき、これを奏上に来た近衛首相についてのお言葉である。近衛の説明ではこれでアメリカが抑制できるということであったが、天皇はこの言葉をあまり信用されず、逆に対米開戦になるのではないか、そうなれば敗戦必至ではないかと憂慮されたときのお言葉である。

 

 

近衛の見通しは甘く、天皇の見通しの方が正しかったわけだが、もしそうなったときどうすべきか、すでに覚悟を定めておられたのかもしれない。(略)

 

 

日本政府は「国体護持」を条件にポツダム宣言の受諾を八月十日連合国通告、十二日に回答が届いたが、その中に「日本政府の形態は、日本国民の自由意思により決定されるべき」という一文があり、軍部は天皇制廃止、共和制誘導の意思があると強く反対したが、天皇は次のように言われた。

 

「それでも少しも差し支えないではないか。たとい連合国が天皇統治を認めて来ても、人民が離反したのではしょうがない。人民の自由意志にて決めて貰って少しも差し支えないと思う」

     (「木戸幸一関係文書 —— 日記に関する覚書」)

 

 

 

国民との紐帯がなくなれば、ドイツやトルコのように消えてしまう。このことは前記の詔勅にも新憲法にも現れているが、これは若き日に経験された第一次大戦の結末に影響されているのであろう。(略)

 

 

終戦の時、天皇は白村江の敗戦(六六三年、百済救済に向かった日本軍が、唐・新羅の連合軍に惨敗を喫した海戦)のことを口にされているが、この敗戦について白鳥博士からどのような教育を受けられたかは「戦捷を誇る勿れ」という、日露戦争後の博士の講演を読むとほぼ想像がつく。

 

 

この講演の中で博士は、「我国はこれまでの学校に用いられる教科書を始めとして、その他種々の書籍などを見るに、我国の勝利だけ記載して、敗北した事は一つも書いてない」と批判されている。白村江の敗戦

実は、戦前の国定教科書には載っていない。終戦後すぐ天皇がこれを口にされたのは、文部省管轄でない、白鳥博士の別の教育を受けておられたからであろう。」