読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「「記紀」入門のための、絶好のテキスト

 

今日では公判記録が公表されているので、津田博士の立場はよく分かる。氏は「学問の性質とその研究法とを、問題とせられたことがらについて、出来るだけていねいに、説明しよう」という態度を以て公判廷に臨まれ、裁判官の態度もまことに紳士的なので、公判記録は、何やら「上代史および上代思想の講義」のようになっている。

 

 

それだけにこの公判記録は膨大で8ポに段組で七三六ページになるが、質疑応答であり、かつ津田博士は何とか裁判官に理解させようと実に懇切丁寧に説明しているので、上代史および上代思想史の最高の解説書になっている。

 

 

古事記」や「日本書紀」について知りたいという人に、私はよく「まず入門書として」この公判記録をすすめる。ある人がこれを読み「月謝も払わずにあんなすばらしい講義が聞けるとは。ありゃ裁判官の役得ですな」と言ったが、そういう読後感を持っても不思議はない内容である。

 

 

第一審判決は津田博士は禁固三カ月、その著書「神代史の研究」などの発行人である岩波茂雄は二カ月であったが、ともに二年間の執行猶予。(略)

 

 

だがその前に、私の感想を少し述べさせていただく。蓑田胸喜は敗戦後、故郷の熊本に帰って自殺したから、それがたとえ狂信とはいえ、彼には彼なりの信念があったのであろう。

 

 

ところが、戦時中は彼と同じような言説を吐きながら、戦後くるりと左翼進歩的文化人になってしまった者もいる。私にはそういう人の言説は信用できない。また戦時中は皇国史観を唱えながら、戦後はマルクス主義史観に鞍替えした人も学者とは思えないし、そういう人の天皇論は信用できない。

 

 

この点、終始一貫、その立場を変えていない津田左右吉博士は信用できる。氏は、白鳥博士の高弟らしく、歴史学が何かに従属する学になることを、厳しく拒否されている。(略)

 

 

では引用に入ろう。中西裁判長が神代史について質問する(原文カタカナを平がなに改め、他に一部文字遣いも改め)。

 

 

「津田被告 神代史の性質とその精神というお訊ねでありますか。

 

 中西裁判長 そうです。

 

 津田被告 一口に申しますると、神代史は説話であります。説話という言葉の私の使い方は、これは実際にあった事柄ではない、話として形作られたものである。そういう意味において説話という言葉を使っております。ですから説話と私が申しまするのは、歴史的事件の記録という言葉の反対の概念であります。(中略)

 

 

私が説話と申しまするのは、それは歴史的事件の記録ではありませぬけれども、いたずらに形作られたものではないのでありまして、その説話に表現せられておる所の思想があるのであります。

何らかの思想を表現せられている所に説話の意味があるのであります。この思想が実に歴史的事実なのであります。昔の人がこういう思想を持っておったということ、その思想が一つの事実であります」

 

 

ここで津田博士が「歴史的事件」と「歴史的事実」を分けていることにちゅういしなければならない。津田博士は、これを次のように説明している。

 

 

「事件というのは何かのはっきりした出来事を事件と申します。別に一つのある年ある月に誰がどうしたというそういう事件ではないけれども、ある状態、そういうものを歴史的事実と申します」

 

 

「ある時代にある人がこういう思想を持っておったとしますれば、その持っておった思想が歴史上の事実であるのであります。そういう思想の表現せられたものが説話であるのでありますから、歴史的事件ではないのでありますけれども、そこには歴史的事実としての思想があるのであります」(略)

 

 

そして、徹底した資料批判によって、「生活の座」との関連を基にその「思想」を追及し理解しようとすることは、聖書の否定でも冒瀆でもない。この考え方が二十世紀最大の聖書学者といわれる故ローラン・ド・ヴォー神父の、「イスラエル古代史」を読めば、旧約聖書への徹底的な史料批判に驚く人があるかも知れない。しかし氏は生涯ドモニコ会の司祭であり、そのことを誰も不思議に思わない。

 

 

聖書の記述の素材に古代オリエントのさまざまな神話・伝説・説話などが取り入れられていることを神父が証明しても、それは別に非難されるべきことではない。むしろ、それがいかに変形されているかを分析することが聖書の思想を解く鍵になりうる。」

 

 

〇司祭と言えば、すでに堅い信仰を持って聖書を読んでいる人だと思うのですが、その人が、徹底した資料批判をし、聖書にはさまざまな神話・伝説・説話が取り入れられていると証明する…… 

その言葉をどう受け止め、どう理解するかというのは、宗教に限らず難しい面があると思います。だからこそ、間違った理解をしないために、徹底的に資料批判をする、という態度になるのだろうな、と感じました。