読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「▼ 徳富蘆花の議論の先見性

(略)

すなわち、「よくない天皇の周囲」=「君側の奸」を討てば、「本来の天皇の政治」が実現するはずだという論理である。

この二点において、蘆花の議論は予見的であった。しかし、とにもかくにも、幸徳秋水天皇から抱擁されず、それによって大逆事件以前においてはおそらくさほど固まっていなかった「天皇制との対決」の必然性という思想を固めることとなる(幸徳の遺書「基督抹殺論」、一九一一年)。(略)

 

 

3「国民の天皇」という観念

米騒動朝日平吾安田善次郎刺殺事件

戊辰詔書大逆事件による締め付けが図られても、明治国家体制の支配構造の動揺は鎮められるどころか、激しくなった。(略)

 

 

 

この状況をさらに加速させたのは、第一次大戦である。ロシアでは戦時中に革命が発生し帝政が打倒され社会主義政権が成立しただけでなく、大戦の帰結として、明治日本が範を取ったドイツをはじめいくつもの国で君主制が倒れた。(略)

 

 

 

ロシア革命に対する干渉戦争、シベリア出兵によって、折から上昇していた米価が暴騰し、米騒動が発生する。(略)米騒動は、無名の怒れる大衆が国家権力と暴利をむさぼる資本に対して何をなしうるのかを突き付けたのであった。(略)

 

 

朝日平吾のモダンかつアルカイックな権利主張

朝日の遺書、「死の叫び声」は、次のような一節によって始まる。

 

 

日本臣民は朕が赤子なり、臣民中一名たりともその堵に安んぜざる者あればこれ朕の罪なり……とは先帝陛下のお仰せなり。歴代の天皇もこの大御心をもって国を統べさせたまい、今上陛下も等しくこれを体したもうものにして、一視同仁は実にわが神国の大精神たり。

 

 

 

ところが、「されど君側の奸陛下の御徳を覆い奉り、自派権力の伸張を計るため各々閥を構え党を作しこれが軍資を得んため奸富は利権を占めんためこれに応じ、その果は理由なき差別となり、上に厚く下に薄く貧しき者正しき者弱き者を脅し窘虐するに至る」という現実が目の前にある。

 

 

朝日は、続いて具体名を挙げて、元老政治家、政党、財閥等の支配層を軒並み罵倒している。とりわけ印象深いのは、貧困と不平等を告発する次のような一節である。

 

 

 

過労と不潔と栄養不良のため肺病となる赤子あり。夫に死なれ愛児を育つるため淫売となる赤子あり。戦時のみ国家の干城とおだてあげられ、負傷して不具者となれば乞食に等しき薬売りをする赤子あり。いかなる炎天にも雨風にも右に左にと叫びて四辻に立ちすくむ赤子あり。食えぬつらさに微罪を犯し獄裡に苦悩する赤子あり。これに反し大罪を犯すも法律を左右して免れ得る顕官あり。

 

 

 

高等官や貴族や顕官の病死は三段抜きの記事をもって表彰され、国家交通工事のため惨死せし鉄道工夫の名誉の死は呼び捨てにて報道さる。社会の木鐸なりと自称する新聞雑誌はおおむね富者の援助のよるが故に真個の木鐸たるなく、吾人の祖先を戦史せしめ兵火にかけし大名は華族に列せられて遊惰淫逸し、吾人の兄弟らの戦史によりて将軍となりし官吏は自己一名の功なるがごとく傲然として忠君愛国を切り売りとなす。

 

 

 

まことに思え彼ら新華族は吾人の血をすすりし仇敵にして大名華族はわれらの祖先の生命を奪いし仇敵なるを。

吾人は人間であると共に真正の日本人たるを望む。真正の日本人は陛下の赤子たり、分身たるの栄誉と幸福とを保有し得る権利あり。しかもこれなくして名のみ赤子なりとおだてられ、干城なりと欺かれる。すなわち生きながらの亡者なり、むしろ死するを望まざるを得ず。

 

 

 

朝日の論理は、明治国家の論理の一部を一方向に徹底したものであった。すなわち、すべての日本人が日本人である限り、等しく「天皇陛下の赤子」であるはずであり、現実にそうならなければならない。

この論理は、君主と人民の関係を親子関係のアナロジーでとらえているという意味でアルカイックでありつつ、「天皇陛下の赤子」という資格において人民の「栄誉と幸福とを保有し得る権利」を主張している点でモダンである。

 

 

 

そして、このモダンな論理を天皇制国家は表向き否定することはできない。なぜなら、この国家自身が、維新以来様々な国家儀礼の整備と実行(歴史家のタカシ・フジタニが言うところの「天皇のページェント」)を通して、全国民が等しく参与する「国民の統合」という観念・感覚を作り出してきたのだからである。(略)

 

 

ゆえに、朝日は「大正維新」を呼び掛け、自らその先駆けたらんとした。その実現手段としては、「最急の方法は奸富征伐にして、それは決死をもって暗殺する他に道なし」とされる。

「黙々の裡にただ刺せ、ただ衝け、ただ切れ、ただ放て」という遺書末尾付近の言葉には鬼気迫るものがあり、現に朝日に触発されるように、安田善次郎暗殺から約一か月後に首相の原敬が当時一八歳の青年であった中岡艮一によって刺殺される事件が起こる。」