読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「▼天皇制平和主義

そして、かかる振舞もやはり、「戦後の国体」の起源に関わっている。「天皇制民主主義」を指摘したジョン・ダワーは、戦後日本の国是となった平和主義の始発点に関して、鋭くも次のように指摘している。

 

 

マッカーサーは日本人に古い残存物を新しいナショナリズムで包み込む可能性を与えた。彼がいつものやり方で、日本人は他の国々が讃え未来において競おうとするような「平和と民主主義の指針(ビーコン)となることによっていったん失われた自国の名声を取り戻すことが出来るかもしれない、と呼びかけた時、マッカーサーは日本人の国家としての誇りに直接訴えていたのである。

 

 

この国はいま辱められ、貶められ、膝を屈し、一時たりとはいえ国家の主権さえ失っている。その人びとに向かって征服者は語る― 真の転向という苦難に耐え、しかもそれを制度化することによって、これらの恥辱を一掃し、道徳的な勝利に転化することができるのだと。

 

 

 

ここで言う「古い残存物」とは天皇制のことである。つまり、天皇を「大元帥」から「平和国家新日本の建設の先導者」へと転身させることによって、日本人の天皇崇拝のナショナリズムの中身を軍国主義から平和主義へと入れ替えることが可能だ、というのがマッカーサーのヴィジョンであったとダワーは見る。

 

 

 

その「制度化」とはもちろん憲法九条を指し、現に今日に至るまで九条は変更を受けていないのであるから、このプロジェクトはかなりの程度上手く機能してきたと言えよう。

 

 

 

しかし、そのような評価を下す時、見落とされるのは、戦後民主主義が「天皇制民主主義」であるならば、それと同時に、戦後の平和主義も「天皇制平和主義」にほかならない、ということだ。このことの持つ重大な意味こそが、現在露呈してきたのである。

 

 

 

すなわち、本論で述べたように、戦後70年余を経て、「国体」の頂点を占めるものはアメリカへとすり替わった。したがって今日、「天皇制平和主義」とは「アメリカの平和主義」あるいは「アメリカ流平和主義」であるほかない。(略)

 

 

 

要するに、国家はつねに建前では「平和主義」なのであり、国家がこの言葉を口にする時、それは安全保障政策の全般的な方向性を実質的には意味している。そして、アメリカが実践してきた「平和主義」とは、世界中に部隊を展開しつつ、現実的および潜在的敵を積極的に名指し、時には先制的にこれを叩き潰すことによって、自国の安全、つまり「自国民の平和」を獲得するという「平和主義」である。

 

 

 

そのように理解して見ると、安倍政権の掲げてきた「積極的平和主義」の実質が正確に把握できる。(略)

だがしかし、日米安保体制のさらなる強化、つまり日米戦力の文字通りの一体化を図るのならば、日米の安全保障政策の全般的方向性(=平和主義)を一致させなければならない。したがって、「積極的平和主義」の採用とは、右に見た「アメリカ流平和主義」の考え方に日本の安全保障政策の考え方を合わせること、言い換えれば、「戦争をしないことによる安全確保」から「戦争することを通じた安全確保」への一八〇度の方針転換 ― 無論それがすでに完遂されたわけではないが ― を含意するわけである。

 

 

 

かくして、「戦後の国体」の末期たる現在において現れたのは、「戦後日本の平和主義」=「積極的平和主義」=「アメリカの軍事戦略との一体化」(実質的には自衛隊の米軍の完全な補助戦力化、さらには日本全土のアメリカの弾除け化)という図式である。

 

 

この不条理そのものの三位一体は、しかしながら、三項すべてが「天皇制平和主義」であるという一点において首尾一貫しているのである。

朝鮮半島の緊張に対する日本政府の対処とそれに対する世論の反応は、「戦後の国体」の臣民たる今日の日本人が奉ずる「平和主義」の内実を明るみに出した。

 

 

「平和主義」の意味内容の変遷は、「戦後の国体」の頂点を占める項が、菊から星条旗へと明示的に移り変わる過程を反映している。今後の東アジア情勢次第では、「天皇制平和主義」を清算しない限り、われわれは生き残り得ないであろうし、生き残る価値も見出し得ない。」