読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(still live, スティルリブ、スティルリブ…)

「当時の状態はバガオから逃げ込んできた結果となった私も含めて、砲弾なき砲を捨てて来た砲兵、銃弾なき重機を捨ててきた機関銃隊が一種の「懲罰的な意味」乃至「名誉の死所を与える」式の温情的意味でビタグの隘路の死守を命じられ、同時に、順次に、生きて帰らぬ「斬込隊」を編成して、敵の後方を襲撃するように命じられた、という形になっていた。




だが、本当にそうだったのであろうか?実情はおそらく違う。支隊司令部はすでに部隊が掌握できず、早々にビタグを通過した各部隊は隘路を守らず、盆地の各部落に散って米を集めていたからである。



人間は食わねば生きて行けぬ。従って各部隊にそれをやめさす命令は、現実には実行できない。同時に、米軍の進攻がこれほど早かろうとはだれ一人予測していなかったから、まず食糧を確保させてからビタグへ集結させようという気持ちもあったのであろう。



そこで、砲や重機の到着を待って隘路でぐずぐずしていた者に、そのままその位置での死守を命ずる以外に方法がなかったのが実情と思われる。というのは、通常ならこの温情は、もう少し”罪”が軽い場合にのみ適用されたはずだからである。



この”温情”は、部隊には適用されても、直接責任者個人である将校には適用されない。その者は、処罰され、その上官と彼の指揮する部隊が、砲を捨てたつぐないをすれば、一応、情状酌量となるはずである。



ではなぜ私の責任は、その時点では問われなかったのか?正確な理由はわからない。S大尉に支隊司令部へ出頭を命じられたのは事実、またそこまで行ったことも事実、しかし奇妙なことが起って、私は支隊長U少将に会わなかったからである。(略)



その近くまで来た時、私はばったりとN軍曹に会った。彼は前に師団司令部付、乙種幹部候補生で、入隊前は私同様の学生であった。二月二十六日、私の部下が機銃掃射で全滅したとき、そのトラックに同乗し、胸に二発の貫通銃創を受けつつ、奇蹟的に助かったのが彼であった。



「私の中の日本軍」で記したように、その後ツゲガラオの病院でもう一度会った。その彼、まだ胸に大きく包帯をまき、杖を手にした彼は、丸い目で、見てはならぬ意外な者が現れたように私を見た。私もオリオン峠へ転進したと思い込んでいたのであろう。私も意外であり、彼は死んだと思い込んでいた。



彼は、野戦病院撤去とともに、支隊司令部と行動を共にし、車で来られるところまでは車で来たという。そうであろう。そうでなければここまで来られるはずがない。
お互いにすでに死んでいるであろうと思っていた相手である。彼はさまざまな意味をこめて不思議そうに言った、「少尉殿、どうしてここへ」。「腹を切りに来たらしいナ」自嘲的に私は答え、手短に事情を説明した。



彼は私の顔を見、私も彼の顔を見、二人は数分、黙って立っていた。不意に彼は言った、「ここでお待ち下さい」。そしてジャングルの中に消えた。小一時間も待ったろうか。夕刻が近づいて来た。」


〇この展開にびっくりしました。本当に不思議な事の連続の末に、山本氏は生き残り、この手記を書いているのだと…。

そして、「私の中の日本軍」を振り返ってみました。
こちらでは、F軍曹となっていました。でも、多分同一人物だと思います。

「出発間近になって、私は重傷を負ったあのF軍曹がツゲガラオの病院にいることを知った。それを聞いただけでまた心の中でムラムラと何かが湧き起り、何としても彼に会い、徹底的に追及して、だれがカタヤワンにトラックをまわしたか聞き出してやろう、それだけでもツゲガラオ行は意味があると考えるようになった。」


「彼は私を無視するように、顔をそむけてまた空を見た。同じ下士官でも、彼はS軍曹やO伍長と違って乙種幹部候補生の出身、当時の典型的な、線の細い大学出の「都市インテリ」であった。(略)


丸顔で目が丸く、態度・物腰のすべてが、富裕な家庭の生れで、何の不自由も知らずに育ったことを示していた。戦争がなければ、生涯おそらく「下士官」には縁のない人だったであろう。(略)」

〇私もこのF軍曹はこのままここで一人で死んだのか…と思っていたので、
ここを読み、驚き、嬉しく、感動しました。