読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (下)

マイクロソフトは、「cortana(コルタナ)」と呼ばれる、それよりもはるかに高性能のシステムを開発している。(略)

ユーザーはコルタナに自分のファイルやメールやアプリへのアクセスを許すことを奨励される。コルタナがユーザーを知り、それによって、無数の件に関して助言を提供するとともに、ユーザーの関心を実行に移すバーチャルな代理人にもなれるようにするためだ。

 

 

 

コルタナはあなたが妻の誕生日に何か買うつもりだったことを思い出させ、プレゼントを選び、レストランのテーブルを予約し、処方されている薬を夕食の一時間前に飲むように促す。今読書をやめなければ、重要なビジネスミーティングに遅れてしまうと注意してくれる。(略)

 

 

コルタナは権限を獲得するにつれ、主人の利益を増進するために互いに操作し合い始めるかも知れないので、求人市場や結婚市場での成功は、あなたのコルタナの性能にしだいに依存するようになりかねない。最新式のコルタナを持っている豊かな人々は、古いバージョンしか持っていない貧しい人よりも圧倒的優位に立つ。

 

 

だが、最も厄介な問題は、コルタナの主人のアイデンティティにまつわるものだ。すでに見た通り、人間は分割不能の個人ではなく、単一の統一された自己は持っていない。それならば、コルタナは誰の利益のために働けばいいのか?私の物語る自己が新年の決意として、ダイエットを始めて毎日スポーツジムに行くことにしたとしよう。

 

 

 

一週間後、ジムに行く時が来たら、経験する自己がコルタナにテレビのスイッチを入れてピザを注文するように指示する。コルタナはどうするべきなのか?経験する自己に従うべきか、それもと、物語る自己が一週間前に宣言した新年の決意に従うべきか?

 

 

 

経験する自己を仕事に間に合う時間に起こすように、物語る自己が夜にかけておく目覚まし時計と、コルタナは本当に違うのだろうか?と思う人もいるだろう。だがコルタナは、目覚まし時計よりもはるかに大きな力を私に振うことになる。経験する自己はボタンを押して目覚まし時計を黙らせることができる。それに対してコルタナは、私のことを知り尽しているので、自分の「助言」に従わせるためには、私の内なるボタンのどれを押せばいいのか、完全にわかっている。

 

 

 

この分野はマイクロソフトのコルタナの独占ではない。Google Now(グーグル・ナウ)やアップルのSiri(シリ)も、同じ方向を目指している。アマゾンもアルゴリズムを使い、あなたを研究したうえで、蓄積した知識を利用して製品を推奨する。(略)

 

 

だが、これはほんの序の口にすぎない。今日、アメリカでは印刷された本よりも電子書籍を読む人の方が多い。アマゾンのキンドルのような機器は、ユーザーが読んでいる間にデータを収集できる。たとえば、キンドルはあなたがどの部分を素早く読み、どの部分をゆっくり読むかや、どのページで読むのを中断して一休みし、どの文で読むのをやめて二度と戻ってこなかったかをモニターしている(著者にその部分を少しばかり手直しするように伝えるといいだろう)。

 

 

 

もしキンドルがアップグレードされ、顔認識とバイオメトリックセンサーの機能を備えれば、あなたが読んでいる一つひとつの文が、心拍数や血圧にどのような影響を与えたかを読み取れるようになる。(略)

 

 

やがて、私たちはこの全知のネットワークからたとえ一瞬でも切り離されてはいられなくなる日が来るかもしれない。切り離されたら、それは死を意味する。もし医療の分野の希望が実現したら、未来の人間はバイオメトリック機器や人工臓器やナノロボットをたくさん体内に取り込み、健康状態をモニターしたり、感染症や疾患や損傷から守ってもらったりすることになる。(略)

 

 

もし自分の体のアンチウイルスプログラムを定期的にアップデートしなければ、ある日目が覚めたら、自分の血管を流れる何百万ものナノロボットを、北朝鮮ハッカーが好き勝手に操っていたという事態を招きかねない。

 

 

 

このように、二一世紀の新しいテクノロジーは、人間至上主義の革命を逆転させ、人間から権威を剥ぎ取り、その代わり、人間ではないアルゴリズムに権限を与えるかもしれない。(略)

 

 

この展開に恐れをなしている人もたしかにいるが、無数の人がそれを喜んで受け入れているというのが現実だ。すでに今日、大勢の人が自分のプライバシーや個人性を放棄し、生活の多くをオンラインで送りあらゆる行動を記録し、たとえ数秒でもネットへの接続が遮断されればヒステリーを起す。

 

 

人間からアルゴリズムへの権威の移行は、政府が下した何らかの重大決定の結果ではなく、個人が日常的に行なう選択の洪水のせいで、私たちの周り中で起こっているのだ。

用心していないと、私たちの行動のいっさいだけでなく、体や脳の中で起こることさえ、絶えずモニターし、制御する、オーウェル風の警察国家を誕生させかねない。

 

 

考えてもみてほしい。もしあらゆる場所にバイオメトリックセンサーを配備できたら、スターリンがどんな使い道を思いついていたことか?あるいは、プーチンが思いつきかねないか?とはいえ、人間の個人性の擁護者が二〇世紀の悪夢の再現を恐れて、お馴染みのオーウェル風の敵たちに抵抗する覚悟を固めるなか、人間の個人性は今や、逆方向からのなおさら大きな脅威に直面している。

 

 

 

二一世紀には、個人は外から情け容赦なく打ち砕かれるのではなくむしろ、内から徐々に崩れていく可能性の方が高い。

今日、ほとんどの企業と政府は、私の個人性に敬意を表し、私ならではの要求や願望に合わせた医療と教育と娯楽を提供することを約束する。だが、そうするためには、企業と政府はまず、私を生化学的なサブシステムに分解し、至る所に設置したセンサーでそれらのサブシステムをモニターし、強力なアルゴリズムでその働きぶりを解明する必要がある。

 

 

 

この過程で個人というものは、宗教的な幻想以外の何物でもないことが明るみに出るだろう。現実は生化学的アルゴリズムと電子的なアルゴリズムのメッシュとなり、明快な境界も、個人という中枢も持たなくなる。」

 

〇 昔見た映画、羊たちの沈黙の中でも、プロファイリングという手法で、

犯人像を想定していました。不特定多数の人間の中からある特定の人を割り出す時には、その人間を「生化学的なサブシステムに分解し、至る所に設置したセンサーでそれらのサブシステムをモニターし、強力なアルゴリズムでその働きぶりを解明する……」

 

ここには、人間というものを広く大きく、「生化学的に」見る視点があるのは、

わかります。

でも、何度も言いますが、人間には、「物語る」視点があり、「宗教的に」見る視点もある。

そんな風に考えずにはいられないのが、人間だったので、ここまで、大勢で力を合わせ、様々な結果を出して来た、という事実があります。

 

 

現実には、物語る思考や宗教的な幻想は、目に見えないものなので、なんら、科学的な「実証」を示すことができない。だから、それを「無い」「偽り」として、有る物だけを拠り所に人間を考えようとするので、「個人というものは、宗教的な幻想以外の何物でもない」という結論になってしまうのだと思います。

 

本当にそれでいいのか?

という疑問が心の底から湧き上がってきます。