読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本人とは何か。

「◎人類史を駆け抜けてきた民族

「日本人」—— 外国人はこの名称を付された民族に、「何か理解しかねるものがある」という感じを持つことがあるらしい。その感じから出たらしい質問に接した場合、私は大体、次のように答える。

 

 

「日本人は東アジアの最後進民族です。先進・後進を何によって決めるか、どのような尺度を採用するかは相当にむずかしい問題でしょうが、たとえば数学ですね。中国人は偉大な民族で、西暦紀元ゼロ年ごろ、すでに代数の初歩を解いていたのですが、当時の日本人ときたら、やっと水稲栽培の技術が全国的に広がったらしいという段階、まだ自らの文字も持たず、統一国家も形成しておらず、どうやら石器時代から脱却したらしい状態です。

 

 

 

 

この水稲栽培すなわち農業に不可欠なのが正確な暦ですが、ヨーロッパがメトン法(十九年閏の法)を発見したのが紀元前四三二年、一方中国人は紀元前六〇〇年ごろにすでにこれを発見していました。中国人は当時の超先進民族です。そのころの日本ですか?縄文後期でまだ石器時代、もちろん農業も知りません。(略)

 

 

 

 

ではこの縄文人とはいかなる民族なのか。この問いには長い間、解答がなかったが、多くの人は中国人・韓国人と同じ祖先をもつ民族だと考えていた。(略)

ところが最近、京大名誉教授日沼頼夫博士が興味深い説を提唱した。氏は生物学者で京大ウイルス研究所の前所長、歴史学者でも考古学者でもない。

 

 

 

日沼教授はATLウイルスのキャリアが、東アジアでは日本人にしかいないこと、日本以外では沿岸州からサハリンに分散している少数民族に発見されているにすぎず、中国・韓国にはいかに調査しても全くいないことを発見した。

 

 

 

ATLウイルスあどのようなウイルスかの説明は省く。そしてこれは母から子へと一〇〇パーセント伝わるわけでなく、大体四〇パーセントぐらいしか伝わらない。そこで人口が増えればキャリアの数はしだいに少なくなるわけだが、近親部族外婚による混血が進めば、ますます減少していく。

 

 

白人は今までの調査ではゼロ、中国・韓国もゼロとすると、東アジアではなぜ日本人にだけATLウイルスのキャリアがいるのか、これは日本人の先祖を考える場合、興味深い問題である。(略)」

 

 

 

◎ 中国の史書に現れた日本

(略)

紀元五七年から二六六年までの約二百年間に、中国にわずかに記録をとどめている当時の日本人はどのような生活をしていたのであろうか。それがある程度わかるのが樋口清之博士の発掘された「登呂遺跡」である。この遺跡の年代について細かい点では諸説あるが、中国の記録に日本が登場する前記の二百年かそれ以前であることは、ほぼまちがいないと言ってよい。

(略)

 

 

 

 

樋口博士は、ここに日本文化の原点があると次のように言われる。「……結局、水田というものは、急に一人が思いついて鍬や鋤一本でできるものでなく、大勢の共同労働と。その共通技術と、統一組織の中ではじめて成功するもので、日本が早く水稲栽培の文化で国家成立に成功したのは、これが出来得たためだと強調したいのである。

 

 

 

そのためには社会的に共同体をいじできる組織とその組織を機能させる指導力が生育していて、共通目的で共通労働が営まれなければならないわけである」と。

いわば共同体を形成して生きる以外に、生きる方法がない。そこで祭祀もまた「共同体の村落共同祭祀として個人の行事ではなく村落や地域の行事となって行った」。そういう共同体は共通の利害で連合する。これは後述する後代の惣村が与郷として団結するのに似た形かもしれない。

 

 

 

 

それら与郷が利害を異にして争う場合もあるであろうが、卑弥呼のようなシャーマンを中心に宗教連合的にゆるやかな統一を保っているのが普通の状態であったと見るべきであろう。稲作民族は定着して動かないのが普通であり、遊牧民族のモンゴルのような大帝国を建てた例は、史上にその例がない。(略)

 

 

 

伊勢神宮の内宮は「日本書紀」によれば垂仁天皇のとき現在の地に遷宮がなされたといわれる。興味深いのはこの神宮が、毎朝、火鑽具で火を起こしているが、この形式は登呂遺跡で発掘されたものと同じだということである。そして自らの田を三丁歩ほど持ち、これに稲を植え、穂刈をして高床式の倉におさめ、毎朝これをうすで脱穀する。

 

 

 

米は現在の日本で用いられているような「改良品種」ではなく、黒米・赤米がまじっている。また塩も自らの塩田で、「万葉集」に出てくるような堅塩をつくる。そして神饌を盛る土器も昔の通りに造られている。

この神饌の基本は御飯と塩と水、鰹節、鯛(夏は干物)、昆布、荒布などの海産物と野菜・果物、そして酒で、朝夕二回捧げられる。

 

 

 

簡単にいうと一部のものを除くと殆ど自給自足で古代のままである。これを大宮司以下が行っており、彼らが行っているのは祭祀であって「営農」ではない。そこでこの人たちの用いる農具や工具さらに生活用器は、みな祭儀用器だということになる。

 

 

 

しかしそれは、決して、年に一回か二回、「お祭りの時」だけに用いられているのでなく、毎日のように行われているのである。(略)

おそらく伊勢神宮で現在行われている以上に、当時の農民の日々の生活と密接に関連した作業であったであろう。そしてそれを行ないつつ祈念することによって、自己の支配下の水田に豊饒がもたらされると信じられていたのであろう。(略)

 

 

 

ここで一つの疑問が生ずる。それほど呉と関係が深いならなぜ「呉志」に「倭人伝」がなく、北方の「魏志」にのみあるのか、と。言うまでもなく当時は「三国志」の時代、魏・呉・蜀の君主みな皇帝と称していたが、魏はもちろんそれは認めなかった。魏は蜀漢を降伏させ(二六三年)、ついで魏にかわった晋が呉を滅ぼすと(二八〇年)、倭人が呉に朝貢したという記録はすべて削除したのではないかといわれる。(略)」