読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

リセットの誘惑に弱い日本人

「ブログのヒット数が一〇〇〇万を超えた。

一〇〇〇万というのはよく考えるとたいした数である。(略)

 

 

だいぶ以前のことであるが、「フェミニズムはもう終わった」と書いたことがある。

別に終わったわけではなく、まだたいへん意気軒昂であられたのだが、私としてはできるだけすみやかに終わってもらえるといいなあという主観的願望をあえて虚偽の客観的事実認知に託して書いたのであるが、しばらくして取材に来た某新聞社の記者が「フェミニズムはもう終わったわけですが……」と切り出したのにはびっくりした。

 

 

こういうのは「終わったねえ」というような遠い眼をする人が何人かいると、「あ、そうなんだ、終わったんだ……」という信憑が燎原の火のごとくに拡がり、あれよあれよというまにほんとに終わってしまうのである。

 

 

 

だから、思想に対する批判も、もっとも安直かつ常套的なのは「……はもう終わっている」とか「……はとっくに乗り越えられている」という口吻のものであり、事実これはたいへん効果的なのである。

この「……はもう終わった」という宣告にたいへん過敏に反応するのはおそらく日本人がひさしく属邦人であったことによるものと思われる。

 

 

 

属邦人の知的活動の基本構造は「新たな外来知識へのキャッチアップ」だからである。(略)

 

 

日本人のいう「自分らしさ」の追及というのは、自己探求というよりは、どちらかというと「いかに「これまでの自分」から離脱するか」という自己離脱に軸足を置いている。

現に、「自分探し」をする人はだいたいそれまでやっていた仕事を辞め、それまで住んでいた街を離れ、それまで付き合っていた人間と縁を切ろうとするものである。

だかrこれは「自己探求」というよりはむしろ「自己リセット」というに近いであろう。

 

 

 

これは別に悪いことではない。ただし、こんなことを国是としている国は日本以外には存在しない。

だから、日本は「毒の回りが速い」のである。

「リセット」の誘惑に日本人は抵抗力がない。

「すべてチャラにして、一からやり直そうよ」と言われると、どんなことでも、思わず「うん」と頷いてしまうのが日本人の骨がらみの癖なのである。(略)

 

 

 

 

それはそれまでの自分のありようを弊履を捨つるがごとく捨てるのが「自分らしさの探求」であり、「自己実現」への捷径であると私たちが信じているからである。

繰り返し言うが、こんな考え方をするのは世界で日本人だけである。

私はそれを「辺境人性」と呼んでいる。

 

 

私はこの日本人の腰の軽い辺境人性のうちに日本人の可能性と危険はともに存すると考えている。

可塑的であるというのは善いことである。

だが、ことの功罪を吟味せずに「……はもう終わった」で歴史のゴミ箱になんでもかんでも捨ててしまうのは愚かな事である。

 

 

というわけで私がこの数年ご提案しているのは、「「……はもう終わった」が理非の判定に代わる時代はもう終わった」というものである。

私以外にそんな性根の悪いことを言う人間はいないはずなのであるが、最近のメディアの論調を見ていると「「……はもう古い」という言い方はもう古い」とか「何かにつけことの善し悪しを簡単に決めつけるのはよろしくない」というような措辞が散見されるようになった。

 

こういう背理に直面してはじめて、私たちは「自分には背理に耐える論理がない」という事実を知るのである。

知ってどうなるというものでもないが、知らないよりはましである。

               (二〇〇七・七・四)」