朝の礼拝で新任教員のみなさんのご紹介がある。
新任は九人。
アメリカ人が二人、イギリス人が一人、中国人が一人、ロシア人が一人、日本人が四人(全員女性、うち一人はカナダ在住)。
日本人男性の新任教員が一人もいない。
これは(日本人男性には)たいへん申し訳ないけど、「徴候的」な風景だと思う。
公募の場合、倍率一〇〇倍を超えるポストもあった。最終選考に残った候補者の「全員が女性」という話をいくつか聞いた。
これは私たちの社会のこれからのあり方をかなり先駆的なしかたで予兆するものだろうと思う。
社会的能力の開発において、どうやら性差が有意に関与し始めている。(略)
話をしているうちに、私は必ず観念奔逸状態になって、わけのわからないアイディアをうわごとのように繰り出す。
男性編集者はこれをあまり好まれない。
苦笑いして聞き流し、「で、話はもとに戻りますが…」と仕切り直しをしようとする。
女性編集者はまずそういうことがない。
話が脱線に脱線を重ねることを厭わない。(略)
彼女たちは、私に原稿を書かせようとやってきて、ぜんぜん違う人にまるで違う原稿を書いてもらう企画を私から聞き出して満足げに帰ってゆく……というようなことが間々ある。
男性編集者でも私が「たいへん優秀」と評価している方々は総じて「おばさん」体質である(誰、とは申しませんが)。
だんじりエディターとかワルモノS石さんは外形的にはマッチョ系であるが、実は意外やフェミニンな内面の人なのである。
これからは「女性の時代」になるであろうと私は先般日経のエッセイに書いた。
それは「フェミニズムの時代」が到来するということではない(それはもう来ないことがわかっている)。そうではなくて、「フェミニンな時代」が到来するということである。
これはおそらく地殻変動的な水準で起きていることで、個人の決断や努力でどうこうなるものではない。(略)
「嫌韓流」というムーブメントが圧倒的な仕方で噴出した韓国文化への愛着への反動であるように、「改憲」や「ナショナリズム」は、この「フェミニンな日本」への怒濤のような趨向に対する必死の抵抗の徴候であるように私には思われる。
いま女性が男性を評価するときの社会的能力としていちばん高いポイントを与えるのは「料理ができる」と「育児が好き」である。
この一週間、私は「オールイン」に感溺しているが、イ・ビョンホンがいちばん美しく見えるのは、後ろ回し蹴りですぱこーんとワルモノを蹴り倒す場面ではなく、「愛している」と言えずに「つーっ」と涙が頬を流れるときの「やるせない」表情である。
そうなのだよ諸君。
共同体が求めているのは「泣くべき時に正しい仕方で泣ける」ような情緒的成熟を果たした男なのであるが、そのようなやわらかい感受性をもった男性をそだてるための制度的基盤を半世紀にわたって破壊してきたことに私たちは今さらながら気が付いたのである。
アメリカの黄金時代が、アメリカの若者たちがすぐにべそべそ泣く時代であったように(ジョニー・ティロットソンとかボビー・ヴィーとか、泣いてばかりいた)、日本はこれから「泣く男」をもう一度つくり出せるようになるまで劇的な社会的感受性の変化の地層を通り抜けることになるであろう。
うん。
四月二七日付の毎日新聞によると、社会経済生産性本部が行った二〇〇六年度の新入社員への意識調査に興味深い結果が示された。
終身雇用を望むものが四〇%を超えたのである。
その一方、「社内出世よりも独立・起業」を望むものは二〇%。これは三年連続での減少である。
プロモーションシステムとして「年功序列」を望むもの三七%(これも調査開始の九〇年いらい最高)、成果給を希望する者は六三%だが、これは過去最低の数値。
仕事の形態として望ましいのは「チームを組んで成果をわかちあう」スタイルを望むものが七九%。
「個人の努力が直接成果に結びつく」はわずか二〇%。(略)
大人たちが感知できない地殻変動を子どもの方は感じ取る。
なにしろ彼らにしてっみれば、「潮目の変化」は命がけの大事である。
「これまでの主張との整合性」とか「政治的正しさ」とか「統計的裏付け」とか、そんなものは知ったことではない。
明日の米びつの心配をしている時に他人の説教なんかのんびり聴いてはいられない。
少し前までは「スタンドアローン」と「フリーハンド」と「責任の回避と利益の独占」が戦略として推奨されていた。(略)
でも、そういう生き方をする若者(もう上の方は中年だが)がマジョリティを占めるようになり、「自分探し」というようなことを中教審が言い出すところまで話が凡庸化すると、今度は「裏に張る」方が生存戦略上有利になる。
そういうふうにしてつねにトレンドは補正される。
セーフティネットのないハイ・リスク社会では、「自己決定・自己責任」に代わって「集団に帰属して、そこに集約される利益の再配分に与る」方が受益機会が多いということが彼らにもわかってきた。(略)
彼らはいずれ一人の配偶者と長期的に安定した性関係を取り結ぶ方が、性的にアクティヴであり続けるよりも売るものが多いことにも気が付くだろう。(略)
そうやってゆくと、このあと二一世紀の中ごろに日本は「一九五〇年代みたい」になるような気がする。
生活は貧しいし、国際社会でも相手にされない三等国だけれど、全員が飢えるとき以外にはひとりも飢えないような暖かい社会。
そんな社会が私が老衰する前に見られると嬉しいのだが。
ひとりひとりがその能力に応じて働き、その必要に応じて取る。
のだとすれば、それはマルクスの描いた共産主義社会そのものである。
「フェミニンな共産主義社会」
おそらくこれが私たちの社会がゆっくり向かいつつある無限消失点の先に望見された「ある種の楽園」のイメージなのである。
フェミニズムとマルクス主義とマルクス主義的フェミニズムが「消滅」した後にはじめて、そのような「楽園像」が現出するとはまことに不思議な事である。
というより、フェミニズムとマルクス主義は、「フェミニンな共産主義社会」にたどりつくために私たちが通過しなければならなかった過渡期だったと考えるべきかも知れない。
もちろん私にとっての「ある種の楽園」は私以外の多くの人にとっては「ある種の地獄」にほかならぬであろうから、楽園の到来までにはまだまだ超えるべき無数の障碍が待っているのである。
(二〇〇六・四・一四 / 四・二八)」
〇 「生活は貧しいし、国際社会でも相手にされない三等国だけれど、全員が飢えるとき以外にはひとりも飢えないような暖かい社会」
そうなってほしいと、私も願います。
こんな文章が読めてとても嬉しい。