読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

人間にとって法とは何か

歴史認識はどこまで共有できるか

次は歴史問題。
歴史問題は、くり返し蒸し返されていますが、東アジアの国々、中国や韓国や日本の団結を阻害している、大変に重要な問題です。


サンフランシスコ平和条約には、日本と中華民国が入っていました。それから日韓基本条約。これは一九六五年に結ばれた、大韓民国と日本とのあいだの条約です。日中平和条約は一九七八年、日本と中国との間に結ばれました。いずれも賠償請求権を相互に放棄していて、すべての問題は解決した、とうたっているわけです。戦後処理の問題は、北朝鮮との国交問題を除けば、終了したはずでした



ところがそのあと、一九八〇年代になって、いわゆる従軍慰安婦が問題になった。朝鮮半島では強制連行があったらしい、と慰安婦問題が騒がれました。最初にこの問題に火をつけた、強制連行をしましたという元日本兵の本がまったくでたらめであることが判明したりして、この件はいまも論争中です。




そして保障問題が起きて来て、日韓基本条約には盛り込まれていなかったから未解決だと、韓国の運動家の人たちは主張しているわけです。
それから、韓国から、慰安婦ではなく労働者として強制連行されてきて、さまざまな被害にあった人々への個人補償の問題があります。



これを補償するとなると、たいへんな金額になるのではないか。建設現場や炭坑などは、軒並み訴訟の対象になるのではと、日本企業は恐れています。




こうした歴史認識の問題と法律上の問題は、並行関係にあります。これを考えて行くのはそんなに簡単でない。このあいだ、慰安婦問題をきっかけにアジア女性基金という半官半民の財団ができました。



五年間にわたって活動を行ったのですが、あまりうまくいったとは言えないまま活動が打ち切られることになりました。そして総括シンポジウムがあり、私も参加したのですが、資料を読んだらとても複雑で、これは一筋縄ではいかないという印象を強くしました。



日本的常識と国際基準

次は国際化の問題ですが、ひと口で言うならば、日本社会の国内基準_株式会社や学校やいろいろな組織を運営するルール_と、国際基準がズレているという問題です
日本の文化では、集団のなかの不文律が優先し、必ずしも法の支配によるとは限らない、というふうになっています。



このようなやり方でやっていると、外国から見ると、外国人に配慮しておらず、日本人はそのつもりがないにしても外国人を排除しようとする排外主義のシステムだ、と見えてしまう。(略)




しかし私の考えでは、外国人が自由に日本の社会や組織に加わることができる、そういう社会は、日本人個々人にとっても、自分たちの自由を最大限に尊重する、住みやすい社会になっているはずです。国際化を進めることは、大変よい課題ではないかと思います。(略)



原点から日本社会を築きなおすために

国際化を進めるには、会社なり組織なりを、目的合理的に編成するのだと、割り切ることが大切ですね。
会社は、社会があってはじめて成り立つわけです。(略)



会社のなかではピラミッド関係のほうが優先し、役割のほうが優先します。その文脈から自由になった社会関係は、つくりにくいと思います。つくれなくて当たり前です。
ところが日本はそういうことをやろうとしてきた傾向があります。経営家族主義とか言いますが、会社が会社以外のさまざまな機能、たとえば教育機能とかレクリエーション機能とかを、全部兼ね備えて、一種の小社会になってしまおうという考え方ですね。(略)




そういうやり方には、限界があると私は思います。どうしてかと言うと、日本の企業の特徴ですが、家族を無視するのです。帰宅時間を考えてみるとわかりますが、休日出勤とかサービス残業とかあって、家族とほとんどいっしょに過ごす時間がない。(略)




ヨーロッパでもイスラム圏でも中国でもどこでも、家庭と企業とはまったく別な原理で動いていて、両方に帰属しているからこそ個人の自由がある、とみんな考えているわけです。



日本の企業の場合はそこが希薄で、会社の中で自己実現をするとか、会社が共同体だとかいう感覚が、戦後と言えどもまだずいぶんあるのですね。それは必ずしもいいことではない、個人として自立するために、逆作用になるのではないか、と私は思います。



日本人は、会社や家庭の外側に社会が広がっていることを自覚する。社会は、公衆によって成立っていることを意識する。そして社会は、法の支配、すなわち法による秩序のもとにあることを理解する。



法をわがものとして、運用する。_こうした原点から、日本人が、日本社会を築きなおすことが、いま差し迫った課題だと思うのです。」