読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

中空構造日本の深層(※昔話の心理学的研究)

「昔話は夢と同じように、変身が行われたり、死んだ者が生き返ったり、空を飛ぶことが可能となったり、日常の論理を超える現象に満ちている。」


フロイトが夢の研究によって得た結論は、簡単にいえば、夢とは人間の無意識内に抑圧された願望の充足を目的としており、それは多くは偽装された形で表されるという事であった。」


ユングは今世紀の初頭、フロイトとともに精神分析の確立のために強調するが、
1913年には訣別し、分析心理学という派をたてた。(略)


ユングフロイトよりも無意識を広く考え、フロイトのいうような、意識によって抑圧された層を個人的無意識と呼び、それより深く人類共通ともいえる普遍的無意識が存在すると主張した。」


「無意識に対するユングの態度の特徴は、フロイトのように、それを抑圧されたものとして否定的に見るのみでなく、創造の源泉としての肯定的な面をも認めることであろう。」



「ここに、人間にとっては困難な問いが生じてくる。すなわち、われわれはどこから来てどこへ行くのか、ということである。この問いに対して、合理的な思考や判断のみでは答えを見出すことが出来ない。


人間は世界の中に自分を位置づけ、その存在をゆるぎなきものとするための知を必要とする。無意識はそのような知を与えてくれるとユングは考える。

夢はそのような知を蔵しているし、昔話も同様である。」


「たとえば、桃太郎の誕生をとりあげてみよう。桃から子供が生まれることなどは、現代の科学的知識の承認しないことである。ところで、人間の自意識が生まれてくるとき、一体それはどこから生まれてくるのだろうか。


人間の自我が確立し始める思春期に、自分はこの家の本当の子ではないのではないだろうかと疑いを抱く子供が非常に多い。(略)


自我は心の中の英雄である。英雄誕生にまつわる数々の不思議な物語は、自我の来歴を、人間の全存在の中に意味づけるのに、最もふさわしいものなのである。

それは、科学的に説明されるものではない。」

〇びっくりしたのは、「自我は心の中の英雄である」という言葉です。
確かに、子供の頃は、全能感とでもいうようなものがあったような気はしますが、
そう言われて、やっとそのことをしっかり意識したような気がします。


というのも、「シンデレラ」の物語をディズニーのアニメ映画で見て、私は、「自分がおひめさまだ…」と想像するのが、とても好きでした。

もちろん、幼少の頃のことです。少し大きくなると、自分は、あの意地悪なお姉さんの方に似てる、という自覚が生じて、苦しみました…(^-^;


でも、日本人の自我も同じように英雄なのでしょうか。
その英雄がなぜ、みんな「消極的に、受動的に」なってしまうのか…


「昔話は合理的な観点からすれば、荒唐無稽に見えながら、前述したような知に満ち、人間の全体性を回復する働きを持つために、時代を超えて語り継がれ、喜んで聞かれてきたと考えられる。」


「また、神話の場合は一民族、一国家の存在を基礎づけるものとして、その素材は無意識的なものによるにしろ、相当に意識的、文化的な彫琢が加えられている。」


「フォン・フランツは、「昔話は海であり、伝説や神話はその上の波のようなものである」と表現している。」


「このように考えると、「赤ずきん」は祖母、母、娘という三世代を代表する女性が男性に打ち勝つ物語である、というのがフロムの説である。」


「「赤ずきん」の話であれば、赤ずきんをかわいがっている祖母が、そのような元型的な母の肯定的な面を示していると考えられる。祖母が森に住んでいることは、森が無意識の領域を示すと考えると、それは無意識の深層に存在する元型的な像を示していると考えられる。(略)


母性の否定的な面とは、母が何ものをも抱きしめ育ててくれる反面、その抱きしめる力が強すぎると、子供の自立を妨げ、結局は子供をのみ込んで死に至らしめるような側面である。狼はそれを表している。狼は何もかもをのみ込んでしまうのだ。」



「父性の原理は、母性の何ものをものみ込んで一体化する機能に対して、切断の機能を第一としている。狩人は狼の腹を切断し、赤ずきんの再生をうながすのである。」



深層心理学というものは、人間の心の深層を扱うものなので、その研究者の主体のあり方が問題となって来る。深層心理学フロイトユングなどの西洋の学者によって始められたものである以上、それは西洋人の心性と切り離すことの出来ないものである。」


「まず、これら外国の学者が多く指摘しているのは、日本の昔話が伝説に近いという事実である。(略)

この点は心理学的に見れば、日本人の心性における意識と無意識の境界の不鮮明さを反映しているように思われる。」



「日本人の場合は、意識と無意識の境界が鮮明ではなく、意識も中心としての自我によって統合されてはいない。西洋人の目から見れば、それはしばしば日本人の主体性の無さや無責任性として非難される。

しかし、日本人はむしろ、心の全体としての自己の存在に西洋人よりはよく気づいており、その意識は無意識内の一点、自己へと収斂される形態をもっているのではなかろうか。

つまり、意識と無意識の境界も不鮮明なままで、漠然とした全体性を志向しているのである。


西洋人の場合は判然とした意識にとって、無意識の世界は「おとぎの国」として明確に区別される。それに対して、日本では現実と非現実、意識と無意識が交錯し、「おとぎの国」は容易に「この世」と結合して、話は伝説的となってくるのである。」


ソ連のチストフの語るエピソードは極めて示唆的である。彼が孫に「浦島太郎」の話をしているときであった。彼が、四方を春、夏、秋、冬の景色によって囲まれている華麗な竜宮城の描写をしている間、孫は興味を示さず、何か別のことを期待している様子なのに気がついた。


チストフが問いただすと、孫は主人公の浦島が竜宮城の竜といつ戦うのかを期待していることを明らかにした。


ここに、自然との一体感を大切にする国民性と、対象との戦いに重点をおく国民性の差が如実に示されている。」



「最後に、昔話における「結婚」の問題は極めて大きい問題である。西洋の昔話は王女と王子との結婚によってハッピーエンドに終わるのが多いのに対して、日本の昔話には、それが数少ないことはだれしも気づくことである。」