読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

中空構造日本の深層(※ 民話と幻想)

「民話と類似の用語に、昔話、おとぎ話があるし、伝説との関係はどうなるのかなどの問題も生じてくる。(略)


しかし「幻想」ということをどう考えるかは、「本論の本質にかかわる事柄である。」



「しかし、ここで、「現実にないこと」が、まったく現実に関係の無いことと速断することは禁物である。幻想がどれほど「現実に関係している」かを示すために、ここにひとつの例をあげたい。」


「このお話にはテレビ文化の影響が十分に認められるとは言え、なかなか面白いお話を子供が演出するのに感心される人もあろう。

しかも、この子供が極端な学業不振で、教室ではぼんやりと鉛筆を噛んで座っているだけの子供だと知ると、ますます驚かれるのではないだろうか。

この子供は知能検査をしてみると、普通以上の知能を持っていることが解ったし、前記のような遊びの内容から見ても、普通以上の能力をもった子供であることが推察される。」



「しかも、このような子供たちと遊戯療法の場面で接するとき、われわれは彼らの幻想の世界のもつ迫力に打たれることが多い。

われわれはただその強さに引きずられ、彼の幻想の世界の一員として、彼の命じるまま動くしかない。そこでは、こちらの主体性を働かせて行動することが非常に困難であることを感じるのである。

このようなとき、われわれは、幻想の世界のもつ自律性ということを感じざるを得ない。それはそれなりの法則に従って動いており、われわれはそれを自由にコントロールできない、嵐の中の小舟のようなものである。」


〇ここまで読みながら、頭の中にあったのは、「舞城王太郎」のことです。
この前に読んだ「好き好き大好き超愛してる。」の中の作家が言ってた言葉で、
なるほど、この人はやはり意図的にそれを目指していたんだ、と思いました。

以下、「好き好き大好き超愛してる。」より引用します。

===================================

「あのなあ。おめえ分かってねーようだからいってやるけど、真面目な顔してりゃ真面目なんじゃねーんだそ」「宇宙人とか魔法とかそんなことばっかり書いてて、それが真面目とは言えないだろ」「何言ってんだ知りもしないこと中途半端な想像だけで判断しやがってバカ。そういう宇宙人とか魔法とかを本気で信じてるのと一緒にするなよ。そういう、宇宙人とか魔法とかってのは、比喩みたいなもんなんんだよ。宇宙人とか魔法とか、そういうもんが表す何かが重要なんだよ」


「宇宙人とか魔法とか、そんな子供騙しくせーもんがいったい何表すんだって」「子供臭い何かを表すんだよ」「……?」「ないもんをないとして諦める前の、ないけどあったらいいよな、とか、あったら困るよな、とかそういうことを思える気持ちとか、そういうふうに思う奴がいる世界を僕は小説ん中に持ち込んでんだよ。って言うのは、まあ例えばだけど」


==============================

〇そして、舞城王太郎には、「ディスコ探偵水曜日」という「ミステリー小説」があります。
多分、ジャンルは「ミステリー」で間違いないと思うのですが、面白く読みながらも、いつも不思議に感じていたのは、まさに、ここでこの河合氏がいうようなことなのです。


つまり…

「われわれは彼らの幻想の世界のもつ迫力に打たれることが多い。
われわれはただその強さに引きずられ、彼の幻想の世界の一員として、彼の命じるまま動くしかない。

そこでは、こちらの主体性を働かせて行動することが非常に困難であることを感じるのである。」

これです。

ミステリーと言いながら、どう考えても辻褄が合わないような「前提」が多いのです。そんなことが現実にあるはずないじゃないの!という前提で、次の事柄が起こるので、いわゆる「真理は強制する」あの必然に導かれる気持ちよさがないのです。

それじゃあ、つまんないか、というと、なぜかこれがどんどん読んでしまう面白さがある。

ちょうど、夢の中で次々と起こることが、あとから考えるとそんなバカな…という話なのに、でも、夢の中ではその瞬間、心から納得して次に話が進んでいる、
というような感じ。

そのような状況に似ています。

私は、ずっとそれがなぜなんだろう、と思っていました。
この辺も、舞城は意図的にしてるんでしょうか。
なんか、すごいなぁと思いました。


「福田晃氏は山村における調査を重ねてゆくうちに、多くの人達が未だに、河童などの「妖怪」の存在を信じている事実に触れ、「大都会の生活にもふれ、近代兵器を手にする青年が、山間に幻想された妖怪を依然として信じていることの意味は何であろうか」と問うている。」


〇ううむ~  ここで思ったのは、「信じる」ことの不思議さです。

戦時中、日本人は、天皇は神様だと信じていました。
山本七平氏によると、天皇ご自身を含め、そのことを「本当に」信じていた人はいない。みな、天皇は人間だと知っていた。でも、神さまだと信じていた。ということで、「信じる」ってなに?と思います。

そして、今も私は日々、「神さま」に祈っています。神さまを信じているつもりでいます。でも、多分、大昔のように、「踏絵」などで、その信仰を試されたら、
私は、瞬時に「踏む」ことを決めて、踏むと思います。

でも、神さまに日々、様々なことを祈ります。
祈ることで、心が支えられ、生きる強さが与えられていると思っています。

だから、信じるって、不思議だなぁと思います。


「幻想の世界は、人間の意識が合理的に論理的にその体系を構築しようとするとき、その存在を深く基礎付け、全体性を回復させる働きをもって出現するのである。」


「今世紀において、「指輪物語」という途方もない幻想の世界を作りだし、多くの人々の心をとらえたトーキンは、回復ということについて興味深いことを述べている。


「回復とは(健康の回復と再生とを含めて)とりもどすこと_曇りのない視野をとりもどすことです。とはいうものの、私はそれが「ものをあるがままにみること」であるなどといって、哲学者たちの仲間に加わろうとはおもいません。あえていうなら「私たちがみるように定められているように見る」_私たちと切り離してものをみる、ということになりましょうか。私たちは窓をきれいにすることが必要です。」

このような目をもって、われわれが幻想の世界をみるとき、それは現代人にとってかけがえのない知識を供給してくれることになろう。」


〇 トーキンの「私たちがみるようにさだめられているようにみる」という言葉に、

あのハンナ・アーレントの「私たちは世界がどうあるべきかを知らない」という言葉と、

「サピエンス全史」のハラリ氏が言っていた「自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?」

という言葉を思い出しました。