読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私たちが孤児だったころ

〇 カズオ・イシグロ著「私たちが孤児だったころ」を読みました。
この作者の物語は、ジグソーパズルのように、エピソードがバラバラに語られるので、読み終わると、必ず最初からもう一度読み直したくなります。

今、もう一度読み直している所なのですが、そうすると、あの「拡大鏡」は、そっかぁ、ここで友人から貰ったものだったんだ…などと、忘れていたことが、蘇って楽しいです。

私は、何故この本のタイトルが「孤児」なのか気になりました。
そして、あの「遠い山なみの光」で母親=女性=大人が、紐を持って襲ってくるかのように感じる少女が登場しましたが、あのことと何か関連があるのかな…

などと思いました。


何故そんなことを思ったかというと、あの「遠い山なみの光」では、大人は少しも
「分かってくれる人」ではなく、「大切に守ってくれる人」でもなく、いざとなれば、平気で大人の都合で子どもを振り回します。

実際、それが直接の原因かどうかはわかりませんが、景子はひきこもりになり、自殺してしまいます。

この「私たちが孤児だったころ」では、主人公のバンクスは、「青臭く子供っぽい理想主義者」として描かれているように見えます。
でも、わたしには、その子供っぽい青臭さを伴った理想主義こそが価値あるものだ、と宣言しているように感じたのです。

例えその裏にどれほどの「大人の事情」があろうとも。

…と、多分私は今回も自分の読み取りたいことだけを読み取っているのです。でも、それでも、そんな風に読ませてくれる本が好きなのです。
私自身、大人になりきれない未熟ものなので。

長い時を経て、再会したアキラも両親も、思い描いていたような世界の人ではなかった。世界はこのバンクスが思っていたようなものではなかった。
バンクスは何も知らず、最も軽蔑すべき人間のおかげで、今の自分になっていることを思い知らされる。

そうなるとたいていの人は言うのです。現実は所詮そんなもの。理想だとか正義だとか青臭いことを言ってみても、結局そんなものを信じていられるのは子どものうちだけ、と。

実際、この日本では、「正義などない」という言葉を何度も聞きました。
むしろ「長いものには巻かれよ」と。

私には、そんな「大人の世界」を拒否したい気持ちが「孤児」という言葉になっているのかな、と思えました。

いろいろ抜き書きしたい箇所があるのですが、一か所だけにしておきます。

「サー・セシルはわたしを軽く突っついてこう言った。
「さっき食事のときにわたしが言ったことだが。この世界が以前より安全で、より文明の開けた場所になってきているという話。わたしはほんとうにそう信じておるんだよ。少なくとも」


ここでサー・セシルはわたしの手をつかんでわたしをひょうきんな顔で見た。
「少なくとも、わたしはそう信じたいと思っておる。ああ、そうとも、わたしはほんとうにそう信じたいんだ。しかし、ほんとうのところはどうだかわからんのだよ、お若いの。


結局のところ、わたしたちがぎりぎりのところで踏みとどまれるのかどうか、わからんのだ。わたしたちにできることはやるだろう。組織を作ったり、協議したり。偉大な国々から偉大な人々を集めて、英知を寄せ合って話すようなことは。しかし、わたしたちのすぐそばでいつも悪が待ち伏せしておる。


ああ、そうとも!悪い奴らは虎視眈々と狙っておるんだ。今こうして私たちが話しているあいだにも、文明を灰にしてしまおうと狙っておるんだ。それに、やつらは頭が
まったく、悪魔的といっていいほど賢いんだ。善男善女が悪いやつらを寄せ付けないでおこうと、一生懸命できるだけのことはやっている。しかし、それだけではじゅうぶんでないとわたしは思うのだよ、お若いの。



それだけではじゅうぶんではないとな。悪い奴らというのは、ふつうのまともな国民よりずっとずっと頭がいい。やつらはまともな国民よりはるかに勝っていて、国民を堕落させ、仲間から離してしまう。わたしはそういうことを見て来た。今までずっと見て来たが、そういう悪い傾向は今後いっそう強くなる気がする。



わたしたちが以前にも増して、きみのような人に頼らなければならなくなってきている理由はそこのところにあるんだよ。お若いの。やつらに匹敵するほど頭のいい者は私たちの側にはごくわずかしかいない。やつらのしかけてきたことをいち早く見抜き、それが根付いて拡がる前に菌を破壊してしまえるような者がね」」