読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

母性社会日本の病理

「西洋人と日本人の自我構造の相違は、対人関係のあり方の中に如実に反映される。日本人の場合は、人間関係の基本構造として、無意識内の自己を共有し合うものの関係として、無意識的な一体感を土台としている。」


〇西洋人と日本人の相違について書かれているのを読みながら、いつも違和感を感じます。

これは、個の倫理、場の倫理の時にも書いたのですが、西洋人・個の倫理の場合、それぞれの個人が自分の気持ちを表現するので、問題点がハッキリ見え、それ故に改善されて今に至っている、と見えます。

でも、東洋人・場の倫理の場合、そもそもそこにある問題に無意識に従っているので、それぞれの個人は自分の気持ちを表現しません。


ちょうど、動物が自分の気持ちを表現しないので、その想いの本当のところはわからないように、日本人の場合は、一体感がある、などと一見それが良い面のように言っても、実際その中にいる人間は、少しもその一体感を良いものとして感じていない、
ということがあると思います。

そこをどう見るのか、そこに踏み込まず、日本らしさとか、日本的なあり方、を追求する姿勢は、どうなのだろう、と疑問を持ちます。


「考えて見ると、日本の「ふすま」による家屋構造は、日本人の自我構造をよく反映している。それは密室であって密室ではない。

日本の家屋にあっては、たとえ密室にいたとしても、ふすまを通じて感じ取られる家全体の平衡状態を破らぬように行動することが可能であり、また、そうすべきなのである。」

〇 この例は、とても分かりやすいと思います。
つまり、今まではふすまの家が良かった。広く使うこともできるし、間仕切りの役目も果たす。たぶん、建てるのも建てやすく、使うのも使いやすかった。今までは。

でも、現在、夫婦とその両親(老人)、子ども三人の家を建てるとき、部屋をすべてふすまで仕切る家族がどれだけいるでしょうか。

日本人だって、個室が欲しいのです!!
日本人だから、皆と一体感のあるふすまの部屋がいい、とはならないのです!!!

ここを私は強調したい。

なのに、なぜ日本人らしさを優先し、場の倫理が自分たちにあっている、と思わなければならないのか。なぜ、本音を言ってはならないのか。


「近代的自我の成長はつねに<家>にたいする抵抗の過程において行われてきた、ということになっている。実際の家出人、あるいは家出を念じた人によって日本の近代文学が成立した。

まさにそのとおりなのだろうが、近代化を西欧化と考える常識のたち場からすると、これはじつに奇妙な命題である。

西欧の近代資本主義社会形成の担い手となったブルジョワの家族は近代的自我のポジティヴな養成機関であったからだ(作田啓一)」


〇家がブルジョワだったから、その子供(家出を念ずる人)は近代的自我をもち、近代文学が成立した。

なのに、まさにその自我を育んでくれた恩義ある家に反抗しているのは、奇妙なことだ、と言ってるのでしょうか。、
でも、これは、ある意味、当然の姿だと思います。

子どもが、親に恩義があるからと、いつまでも親の価値観に従っているようでは、真っ当な大人になれません。

子どもをきちんと育てる親は、子どもを尊重する。
子どもは、大人になり、親から離れる。
そして、また子供を尊重する子育てをする。

これで初めて、しっかり生きる人間社会ができると思うのです。


でも、日本は、親の恩義(日本的なもの・場の倫理)に反抗するものは、仲間外れにするぞ!と脅す。
だから、本音を隠し、親(場の倫理)に従う。
つまり、親離れが出来ない人間が育つ。
その親離れしていない人間が、日本的であれ、とまた場の倫理を強制する。

結局、真っ当な大人が育たない。


「このような観点からすれば、日本の「家出人」たちがいかに自我確立の文学を歌い上げても、それは西洋人のそれとは異なるものとならざるを得なかったことが了解される。明治・大正にかけて西欧的な自我の確立を成し遂げたような錯覚をもった日本人は、第二次世界大戦という痛撃によって、その自我のにせもの性をはっきりと体験させられたのである。

このような家族のありかたの相違と、それに加えて、第二次世界大戦後における倫理観の混乱のため、日本人の自我は、今大きい岐路に立たされていると考えられる。(略)」



〇この本は、1976年に出版されています。


「日本人の中でも、西洋流の自我の確立を望む人は、「家出人」となることを指摘した。ところが、実際、われわれの自我確立をはばむものは「家」などではなく、もっと広い「場」なのである。

その証拠に、家出をした文学者たちは自我確立の小説を書きつつ、一方では「文壇」という日本bん的場をつくり、その生き方は相変わらずの日本式を守っているのである。

これはなにも文学者のみのことではない。学者であれ、政治家であれ、その専門としたり主張したりするところは、近代的であり革新的であるのだが、その属する集団構造は、あくまで日本的「場」であることが多いのである。」


〇例えば、子どもを育てるとき、理想も語り、現実も語ります。
人の世は、なかなか理想通りにはなっていない。でも、理想は大事で、できるだけ、そちらへ向かおう、とすることで少しずつ良くなっていくよね…

という姿勢で子供の様々な問題を支援してゆきます。

自我の確立をしようとした、明治大正の「子供たち」が、第二次世界大戦を引き起こしてしまった。だからあんたたちの自我の確立は偽物だった。
もう、そんな西洋かぶれのような真似はやめなさい。

と言えば、そこで、子どもたちの今までの努力は無になってしまいます。

現実は、なかなか難しい。
日本の体質は100年、200年、の単位でしか変えられない。

これからも、しっかり頑張って、この間違いを乗り越え、もう二度と同じ間違いをしないようにしよう、となっていくとき、
子どもたちは、少しずつ大人になれると思います。

私はそう思うのですが。



〇一番肝心なのは、「真理は強制する」という視点だと思います。

北を目指すとき、北極星を見つけ、そちらへ進む。
まず「北は北極星のある方向」、という真理を探すのが大事で、
そのためには、頭の良い人も悪い人も性格のイイ人も悪い人も、
みんなで、喧々諤々議論する。

そして、それが学者たちによって示されたとき、

北は北極星の方向という真理をあれこれ詭弁を使って曖昧にしないでほしい。
政治家は、自分の利害や損得で、その真理を隠蔽しないでほしい。
隠蔽する政治家は、失脚してもらう。

なぜ、この単純な仕組みがこの文明国、先進国の日本で未だに機能しないのか。
私は、それが不思議でたまりません。