読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

中空構造日本の深層(※ 象徴としての近親相姦)

「近親相姦のタブーは人間のほとんどあらゆる社会にみられることであり、おそらく、その発生の歴史も極めて古いものであると思われる。

もっとも、よく知られているように、古代エジプトの王は自分の姉妹を妃とすることになっていたので、近親相姦が公認されていたわけであるが、これは例外中の例外といってよいだろう。」


「人間の無意識内に、近親相姦の願望が存在することを明らかにして、世界の人々に強烈な衝撃を与えたのは、フロイトであったが、彼も近親相姦のタブーが人間特有の「文化」によるものであることを、まず強調している。」


「人間の文化を高尚と考え、低劣な部分を動物に投影する考えの誤りが、二十世紀も後半になってから、だんだん明らかになってきたように思われる。」



「ところで、母=息子間の近親相姦タブーが猿に存在するとなると、近親相姦は動物的で、そのタブーは人間的、文化的であるということは、考え直さなくてはならなくなる。


そこで筆者の考えたことは、動物に自然にそなわっていた攻撃に対する抑制心の解放から人間の文化がはじまったように、近親相姦に対する自然のタブーから解放されることによって、まず人間の文化がはじまったのではないかということである。」


「相反するものの統合、それは象徴によって行われる。人間は象徴を生み出すことによってしか生き延びてゆくことはできない。それは絶えることのない創造の過程である。(略)


彼(フロイト)は敬虔なる宗教の中にひそむ性欲のリビドーの存在を指摘し、偉大な芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチの近親相姦願望を名画の中に探り当てたりして、世に警鐘を与えたのである。」



「近親相姦のテーマは、現代の女子高校生にとっては、漫画でおなじみのことなのである。ただ、賢明にも、それは大人には少し刺激がきつ過ぎることを知ってはいるが。」


「筆者は、多くの現代人が抑圧しているのは、フロイトの時代とはむしろ逆に、「霊」あるいは「魂」の問題ではないかと思っている。

現代人は性なる世界を重視するあまり、聖なる世界の存在を忘れているように思えるのである。筆者はいつか、フロイトの時代には、大学教授は性のことを語るのに、顔を赤らめなければならなかったが、現代では、大学教授は霊のことを語るのに顔を赤らめなければならない、と書いたことがある。」


「今まで述べてきたような考え方によって、フロイトと対立し、結局は訣別を余儀なくなれたユングは、彼の「自伝」の中に、次のように述べている。

「私にとっては、近親相姦は極めて稀な事例においてのみ、個人的な悶着の種を意味していた。通常、近親相姦は高度に宗教的な側面を有しており、そのために近親相姦の主題は、ほとんどすべての宇宙進化論や多数の神話の中で決定的な役割を演じているのである。

しかるに、フロイトはその字義どおりの解釈に執着し、象徴としての近親相姦の霊的な意義を把握することができなかった。」


「従って、近親相姦タブーを破ることは、人間の意識構造のみではなく、全存在にかかわるおそれを引き起こすのである。人間の意識のみではなく、全存在をゆすぶる体験を、霊的な体験といってよいのではないだろうか。

自分の全存在をかけて、自然の法に挑戦することによってこそ、人間は霊的な体験を成し得るのではないかろうか。」


〇私の理解できる近親相姦タブーは、何かが壊れてしまっている人間の
問題行動としか理解できません。
人間の全存在をゆすぶる霊的な体験という、ユングの世界がよくわかりません。

でも、象徴としての、ということなので、ついてゆくのがなかなか難しいです。


「人間が神々に敢えて挑戦しようとするとき、それは近親相姦タブーの意識的な破壊あければならない。強い意志の力をもって、われわれは母との合一を体験しつつ、なおその中から再生し得るとき、それは限りない創造的な過程となるであろう。

ここに近親相姦の象徴次元における創造の秘密が存在している。」


「原初なる母への回帰を、神の守りの中で行おうとする考えから、オリエントの宗教に特徴的に見出される聖娼の制度が生じてくる。」



キリスト教文化が母=息子近親相姦の否定の上に立っているとするならば、はたして日本はどうであろうか。日本は精神史的にみると、未だ母=息子近親相姦の状態の中で、まどろんでいると言えるのではなかろうか。

これがおそらく、日本人が西洋の真似をして、フロイト流にエディプス・コンプレックス理論をふりまわそうとしても、なかなかうまくゆかなかったことの理由ではないかと、筆者は考えている。

日本人は良い意味でも悪い意味でも、原初の母なるものの存在と切れていないのである。」



「(略)とすると、肉体をそなえたものとしての、母=娘一体感の中から、敢えてタブーを破って、娘が父との結合をはかろうとするならば、それは極めて創造的なことと言わねばならない。


このような観点から日本の文化をみてゆくと、実際的にも象徴的にも、父=娘結合の問題が背後に強力に存在していることに気づかされる。しかし、日本人は全体として、まだまだ、この関係について無意識のように感じられる。」


「我が国では、性に対するタブーは西洋ほど強いものではなかった。それが西洋文明との接触によって、性のタブーがにわかに強くなってしまった。しかも、その根底に存在する宗教的側面とまったく切り離されて、それが輸入されたため、日本の男性は、旧来の母=息子相関関係に安住している人を除くと(こんな人は案外多いのだが)、非常に困難な状況に陥れられたことになる。

彼と妻との関係は、多くの場合、余りにも母性的要素が強すぎるし、さりとて、自分の霊的な求めに対応する女性を妻以外に探し出すことは、彼の強いタブー感が許さない。そのような希求は勢い娘へと向けられてくる。

この為にその結合は極めて強力になり、お互いの不幸を招くほどのものになってしまうのである。」