読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

中空構造日本の深層(※ 家庭教育の現代的意義)

「現代のわが国が教育についての根本的な問題に直面していることは、多くの人に感じとられている。(略)

しかしながら、多数の人々が教育の制度や、学校の在り方などについて論じ、家庭の教育については、いわゆるハウツー式のものにまかせてしまって、正面から論じることが少ないように思われる。」


「筆者は心理療法家として、家庭における悩みについての相談を受けることが多いのであるが、最近特に感じることは、来談される人の中に、一般からは教育の「専門家」と思われている人が多くあるということである。

これらの方とお会いして思うのは、これはいわゆる「紺屋の白袴」的な問題ではなく、わが国における現在の家庭の問題がいかに深刻であるかを反映しているということである。

これらの人々は家庭教育に不熱心なのではなく、両親ともに教育に熱心な人が多いのである。よく言われるように、子どもが悪いのは親が悪いなどという図式は、この人たちには適用し難いことが多い。」


「このような話を聞くと、両親の教育態度が悪いのだろうと思う人もあろうが、実のところ、一般的な基準に照らす限り、それほど大きい欠点を見出すことが出来ない。」


「ところで、わが国においては、戦後になって、以前の複合家族で父権による権威主義だった家族の在り方が、核家族で民主主義的な在り方を理想として変化してきたものと言うことが出来る。」


「ここで、われわれが考慮しなければならないのは、戦前の日本において、父権的複合家族という形態をとっていた家族は、いかなる構造に支えられていたか、ということである。

ここに、支えとして取り上げた「構造」とは、明確には人々に意識されてはいないものの、漠然としたものとして人々の心に共通的に存在し、それを踏まえてこそ、家族が家族としての存在を安定させているような、潜在的な心の構造を指しているのである。」


「筆者の主張は、日本の家が強力な母性原理によって支えられている、ということである。母性の原理とは、端的に言えば、すべてのものを平等に包含することで、そこでは個性ということを犠牲にしても、全体の平衡状態の維持に特に努力がはらわれるのである。


これに対して、父性原理は善悪や、能力の有無などの分割にきびしい規範をもち、それに基づいて個々人を区別し鍛えてゆく機能が強い。」


「そのような家における父親は、戦前には「強い」父と思われていたが、実のところ母性原理の推進者としての強さを持つものであり、家と社会とを通じて働く母性原理に守られて、父権を行使していたものである。

従って、父親はそれ自身として、父性的な強さはもっていなかったと言うべきである。

これに対して、西洋の家においては、父親は父性原理に支えられ、社会に対しても独自の規範をもって抗するだけの強さをもち、それによって家族に接していたと思われる。この際、父親たちがその背後にキリスト教における父なる神という像を持っていることの強みも、忘れてはならないことであろう。」


「つまり、核家族という形態は父性原理に基づく構造に支えられて維持されている。この点が明確に把握されていないときに、わが国においては、近代的自我の形成を志した若者たちは、西洋の図式を単純に借り受けて、家庭内における父という権力に抗して、それを成し遂げようとした。(略)


ところが、実のところ、彼らの自我形成をはばんでいたものは父権とか家などではなく、既に述べたように家庭内に容易に浸透してくる、日本社会全般にはたらいている母性性そのものであったのである。」


「日本人が核家族を好むことの最も大きい理由は、日本的人間関係のしがらみから逃れたいことであると思われる。」


〇確かにそうです。私はそうでした。


「日本の昔の在り方は、西洋と異なって子供に対して父性的な厳しい訓練は行われない。しかし、結婚した夫婦も大家族の中に包含され(別居していても、心理的には同様である)、日本的「しがらみ」という母性的訓練を経て、徐々に一人前になってゆくのである。(略)


日本の家と社会は互いに浸透性が強いので、いわば日本という大きい大家族の中で鍛えられてゆくと言っていいと思われる。」


〇この話、とても納得しました。
子どもを育てていて、どうも、一人一人の親や子供の問題とは言えない問題に直面しているように、感じていました。

メチャメチャ大きな激流の中にあって、個々の人間が、互いに相手を責め合って、皆で自信を無くしていく、負の連鎖に入っているような感じがありました。

本来なら、専門家がこの問題について提言し、それをもとに、教育についても、手を打つべきだと思うのですが、私たちの国の政府はそれをしない。

あの「日本はなぜ敗れるのか」にあったように、「専門家」の知恵を生かそうとはしない。

「西洋の父性原理によって個人が鍛えられ自我形成が行われた後では、親族づき合いによって個性が脅かされることも少ないし、また、父性的な自我確立に伴う孤独感(これは日本人には共感し難いものだが)を癒すためにも、勢い交際の頻度を高めたくなってゆくであろう。」


「ところが、子どもたちは、今や、日本の家庭を支えてきた基本構造の亀裂の中に落ち込んでもがいており、この子供たちと対決を強いられる親は、自分の存在の根のぎりぎりのところに肉薄されることになる。


現在の日本の家庭のこのような実存的な教育の場から逃避している親は多い。
もちろん、常に逃避の行動はそれなりに合理化され、美化されている。」


「ともかく、家庭外にできる集団は主義や主張や、趣味などを同じくするものである。しかも、そこで主張される主義や、尊ばれる趣味などは常に正しく、立派なことである。

その正しさや立派さを免罪符として、そこに何らかのことを共有する母性集団が成立するのである。

これらの人の中には、このように家族から自立して、自分の個性を生かして生きていると思い込んでいる人もいるが、むしろ底流に動いているものは、母性原理そのものなのである。本人がどのように錯覚しようとも、慧眼な子供たちがそれを見逃すはずはない。子供たちは何らかの方法を通じて、両親に実存的な対決を迫ってくるのである。」


〇厳しい…。


「方法をもたずにどうして相談可能かと思われようが、むしろ、われわれのいい方法は無いという確信に支えられ、親たちは他人に頼ることをやめ、自らもっとも個性的な方法を見出してゆくのであり、そのときにこそ問題は解決してゆくのである。


このような過程の苦しさに耐えかねて、多くの人は他に頼ろうとし、果ては、他を恨み非難することが多いのである。」


「天下国家のこととしての教育制度などの改革に取り組むのと同様の熱意をもって、家庭のことにあたる必要性を筆者としては痛感している。

日本人の意識革命は家庭内から生じてくるのではないか、おそらく。
革命の原動力となるのは「女・子供」たちであろう、と考えられるのである。」


〇ひきこもり、結婚しない若者、少子化
充分に天下国家を揺るがす問題になっていると思います。

昔、松田道雄さんの「私は女性にしか期待しない」という本を読みました。
あの時思ったのは、それほどまでに、男性は自分の時間を仕事に取られている、
ということでした。

個人的に夫を責めても夫自身もどうにもならないほどに「激流」の中にいる、
と感じました。

でも、だからといって、「女・子供」に期待されてもなぁ、と思います。