読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  13 権力との独特の距離感

「O 先ほど整理して下さったように、仏教も儒教もそしてユダヤ教も、多神教の克服という点では共通しています。多神教の克服というのは、ヴェーバー風に言えば「Entzauberungエントツァンベルング(脱呪術化、呪術からの解放)」ということになるでしょうか。


多神教は、一種の呪術です。僕の解釈では、呪術というのは、一種の矛盾というかパラドクスがあって、脱呪術化というのは、その矛盾やパラドクスを克服することです。(略)


呪術では、超自然的なもの、つまり風の神とか樹の精霊とかいったものが、病気を治してくれたり、雨や食料といった恵みをもたらしたりしてくれるわけですが、そうした結果を得るために、人間の側が、何か捧げものをしたり、儀式をしたり、いろいろな仕方で、その超自然的なものに働きかけるわけです。


つまり、超自然的なものは、人間に使役され、強制されて、その力を発揮する。そうすると、人間とその超自然的なもの(神々)とどっちが偉いのか、わからなくなります。


その超自然的なものが人間以上の力を発揮するように、人間の側が誘導しているからです。神々は、一方では、人間を超えているかのように言われながら、他方では、人間の道具に過ぎない。


先ほど橋爪さんは、一神教多神教を比較しながら、後者は人間中心の視点を脱しないと仰いましたが、これは、それと同じです。


仏教にせよ、儒教にせよ、そしてユダヤ教にせよ、この呪術あるいは多神教の矛盾の乗り越えという意味を持っていると思います。いずれの宗教も、呪術にくっついて離れない、人間と超自然的なものとの間の循環関係を断ち切っている。(略)



あらためて確認しておけば、血縁的であったり、地縁的であったりする、小さくシンプルな原初的な共同体が、自然と共生関係にあるような時には、呪術や多神教が自然発生的に出てきます。しかし、異民族が侵入してきたり、多民族の帝国であろうとした時に、こういう呪術や多神教の自然崇拝や特殊な習俗ではやっていけない。


そこで、民族や部族を超えて妥当性をもつような普遍的宗教・世界宗教が出てくる。仏教も儒教一神教も、普遍宗教・世界宗教です。


実際、これらの宗教は多民族が共存した帝国の宗教になっています。最もわかりやすいのは儒教で、漢以降の中華帝国の理念を支えます。キリスト教も、ローマ帝国の中で最初は迫害されますが、やがて承認され、「国教」的な扱いを受けるようになる。


こうした事実を踏まえた上で、ユダヤ教に関して疑問に思う事があります。ユダヤ教もまた、普遍宗教です。しかし、ユダヤ教というのは、強大な政治権力と言いますか、帝国的な権力と比較的そりが合わないですよね。(略)


そこでもしユダヤ教が権力にうまく寄生していけば、帝国の宗教となりえた可能性もあるような気がするのですが、預言者が王様を褒めることはまずなくて、非常に対立的になるんですね。後にキリスト教は帝国(ローマ帝国)の宗教になりますが、その前のユダヤ教に関して言うと、預言者たちはほとんどの王を批判している。


ユダヤ教は、ユダヤ人のセキュリティの神様であるにもかかわらず、強い王権に対して、良く言えばすり寄らない。そういうものとの親和性が非常に乏しいわけです。


ユダヤ教だって本来は民族の安全と軍事のためにあるわけですから、強大な権力にうまく平和的に寄生すれば、ユダヤ教としてはむしろその方が良かったような気もするんですけれども、実際には権力、とくに国家的・帝国的な強い権力に対して否定的なところに、この宗教の特徴があると思うんです。それはどうしてなのでしょうか?



H まず、ユダヤ教の重要な特徴は、わりに原始的な部族共同体の特徴と、王を頂く発達した古代社会の特徴と、両方を兼ね備えているということです。ま、珍しい。


いくつか、キー概念があります。
第一のキー概念は「寄留者」。


寄留者(ゲーリーム)とは、その社会の正式なメンバーではないという意味で、今で言うとグリーンカードみたいなものかもしれない。グリーンカード(永住許可証)というのがアメリカにあって、アメリカ国籍(市民権)は持っていないけれど、グリーンカードがあれば労働も出来る。


でも投票ができないとか、制限がある。それと同じで、寄留者にも権利と制限があった。ユダヤ民族はもともと、寄留者だったとされている点が、とても大事です。アブラハムは寄留者で、外国からやって来て、カナンに住みこんだ。その子イサクやイサクの子ヤコブもそうです。(略)


「創世記」の描くもともとのイスラエルの民は、部族社会の性格を色濃く残す、遊牧民です。「創世記」他が編集されたのは、バビロン捕囚のころ、つまり、都市生活を何百年も続けた後ですから、古きよき時代を理想化する伝統主義が投影されている。


アブラハム、イサク、ヤコブ三代の物語は、そういう理想的な時代のシンボルだった。そして、彼らの地位は、土地所有を許されない寄留民だった。」



「H たとえば、安息日ヤハウェは世界を六日で創造し、七日目に休みました。そこで、七日目を安息日(サバス)として神聖化し、その日には仕事を休みます。これは、奴隷や牛馬の消耗を防ぐ、社会保障の意味があったと言われている。


また、七年目ごとに安息年があって、畑の耕作を休んだりする。五十年目ごとに債務を帳消しにして奴隷を解放する、「ヨベルの年」という規定もあった。収穫のすんだ畑に残っている落ち穂を拾うのは寡婦や孤児の権利で、誰も邪魔できないという規定もあった。


外国人労働者にも一定の保護が与えられた。こういう社会福祉的な規定(マックス・ヴェーバーはこれを「カリテート」と呼んでいる)がヤハウェに対する義務としてどっさり含まれているのが、ユダヤ法なのです。



カリテートは、イエスの教えの根底にも流れている考え方で、ユダヤ教がこの点を強調しなかったら、キリスト教もありえなかった。


貧富の格差の拡大や社会階層の分解を警戒し、権力の横暴を見過ごせない。低所得者や弱者への配慮を、ヤハウェは命じている。


よって、第二のキー概念は、カリテートです。
ヤハウェ信仰は、このように、神の前の平等を理想とし、古代の奴隷制社会に異を唱えるという性格も備えている。」



「H もう少し続けましょう。
では、ユダヤ教は、権力に対してどのような態度をとるか。
人間が権力を持つことを警戒し、権力を肯定しないのが、ユダヤ教の特徴です。
古代の王国や帝国はみな、権力を肯定し絶対化して成立していたのだから、これは驚くべきことです。


では具体的に、どのように権力をコントロールするか。
まず、Godの意思を体現する預言者がいて、彼が王となるべき者に油を注ぎ、王に任ずる。このような手続きを踏む。(略)


第二に、長老の同意。(略)


第三に、預言者の批判。(略)


これは、結局、イスラエルの一般民衆が、王権をコントロールするということです。民衆が、権力を監視する。儒教にこんな論理はありません。他の宗教にも、ない。
こういうコントロールは、ヤハウェという絶対神を想定するからこそ、可能になっている。


ヤハウェはどんな人間よりも、王よりもくらべものにならないほど偉い。この絶対神のもとでの王制なるものを、ユダヤ民族が初めて考え付いた。この発明は、大きな影響を後世に与え、有力な政治哲学として、人類の財産になるのです。(略)




O 社会や政治を神が統括しているなんて聞くと、現代のぼくらはものすごく非民主的な感じを持ちますが、ユダヤ教の場合、神がいたがために、一種の民主制が保たれていた、と解釈できます。


ユダヤ教では、一つの絶対的な差別・差異が前提になっている。言うまでもありませんが、神と人間、神と被造物の差別・差異です。その差別・差異が圧倒的・絶対的であるがために、ヤハウェという例外的な点との関係で、全ての人が平等化されるという仕組みになっているように思います。


その結果として、王権を民衆がコントロールするという、一種の民主主義が実現したのでしょう。ヤハウェは民主主義的平等を可能にする、絶対的な例外的な差異ですね。王と言えども、ヤハウェとの関係を考えれば、他の人間と違うわけではないので、勝手な権力はふるえません。


たとえば、儒教と比べると違いは明白です。儒教の場合も、人間に先天的な差別があるとは考えませんから、レイシズムとかカースト制とは違いますが、しかし、徳のある格の高い人間と徳のない格の低い人間とが、政治において異なった役割を果たすのは当然であると考えられている。(略)」