読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  16 意識レベルの信仰と態度レベルの信仰

「O 学生と宗教や宗教社会学について話している時、彼らがつまずいていると思う箇所は、非常に素朴なところなんですけど、キリスト教とかユダヤ教を「信じている」という心の状態がなかなか思い描きにくいようです。(略)


つなり、近代的な世界観を基本のところで受け入れながら、なおかつクリスチャンでありうる、あるいはユダヤ教徒であり得る。そのような心の状態は当然あるわけです。(略)


大多数の、近代の啓蒙されたクリスチャンは、たとえば進化論は進化論でそれなりに真実であると思いつつ、なおかつクリスチャンでありえたりするわけですよね。そうすると、信仰ってじゃあ何なの?キリスト教ユダヤ教を信じているってどういうことなの?そのような疑問が出てくる訳です。



H 二つのことがありますね。
一つは、キリスト教はもともと、聖書を「文字通りに」正しいと信じるものではありません。聖書はあちこち矛盾していることが明らかなので、文字通りに信じることができないテキストです。だから、信徒がみなで相談して、この部分はこう読みこう信じましょうと決議して、その解釈に従って信じる。


その解釈として有名なのが三位一体説ですけれど、三位一体説は「説」というぐらいで、学説なんです。(略)


科学はもともと、神の計画を明らかにしようと、自然の解明に取り組んだ結果生まれたもの。宗教の副産物です。(略)


聖書も、科学も、どちらも包括的な考え方の体系で、それを信じて生きていくことが出来る。問題は、両者が互いに矛盾する場合があることです。(略)

そこで、矛盾を避けるため、片方を信じないことになる。多数派は、聖書を話半分と考える。福音派は、科学を話半分と考える。結論は反対になるけれど、考え方は瓜二つ。極めつけの合理主義なのです。


これと違うのが日本人。(略)
天皇の祖先をさかのぼると、神になる。サル→天皇、神→天皇、は形式論理からいって矛盾するはず。日本人はその両方を信じている、というのです。
アメリカ軍の将校でなくたって、これは理解できない。


日本人は、自分が矛盾したことを信じていると、気がつかないし、気にしない。
多分、それは、学校教育のせいです。(略)
こう考えるなら、日本人に、福音派の人々を馬鹿にする資格はないんです。福音派の人々は、矛盾律を理解して、それに合わせて自分を律している。日本人は、矛盾律なんか気にしていない。矛盾律以前の段階だ。」


「O ドーキンスは、自分は無神論者で、キリスト教等のいかなる宗教も信じていない、と言います。たしかに、意識のレベルではそうです。しかし、ドーキンスの本を読むと_それはとても良い本ですが_、その内容は聖書とは矛盾していても、あのような本を書こうとする態度や情熱は、むしろ宗教的だ、と思わざるをえません。(略)


現代を考えるうえで重要なのは、このような態度のレベルの信仰だとうのです。もうキリスト教なんて形骸化しているとか、もう信じている人はう一部に過ぎないとか、そういう風に思う人もいるかもしれません。


しかし、意識以前の態度の部分では、圧倒的に宗教的に規定されているということがあるのです。そうするともともとのユダヤ教キリスト教、あるいはその他の宗教的伝統がどういう態度を作ったかということを知っておかないと、世俗化された現代社会に関してさえも、いろんな社会現象や文化について全然理解できないことになるんですね。


H まったく同感です。」


〇 意識レベルでの信仰はないけれど、態度レベルの信仰が感じられる欧米人、ということでは、先日読んだ「タイガーと呼ばれた子」の作者、トリイ・ヘイデンにも、それを感じました。


「私には、人間とは高潔なものであり、それぞれが誰にも奪われることのない権利をもっており、私の生徒たちもみんなその権利をもっているというはっきりとした信念があった。」

少なくとも私にはこんなにはっきりした「信念」はありません。願わくばそうであってほしいという願望程度のものしかありません。

トリイ・ヘイデンさんがどのような信仰を持っているのかいないのか、全くわかりませんがが、この言葉には、とても強い宗教的な価値観を感じました。