読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  15 奇蹟と科学は矛盾しない

「H 世界はGodが創造したあと、規則正しく自然法則に従って働いている。誰も、自然法則を一ミリでも動かすことは出来ない。その意味で、世界はすみずみまで合理的である。でも必要があれば、例えば預言者預言者であることを人々に示す必要があれば、Godは自然法則を一時停止できる。


これが、奇蹟です。世界が自然法則に従って合理的に動いていると考えるからこそ、奇蹟の観念が成り立つ。


よく、この科学の時代に奇蹟を信じるなんて、という人がいますが、一神教に対する無理解も甚だしい。科学を作った人々だからこそ、奇蹟を信じることが出来るんです。科学を信じるから奇跡を信じる。これが、一神教的に正しい。


O これもやっぱり日本人には難しい所でしょうね。先ほど、ヴェーバーの、「脱呪術化」という論に言及しましたが、呪術を完全に否定してしまった後に、奇蹟というものが出てくる。奇蹟は、呪術とは逆に、自然法則が厳格に支配する合理的な世界の方に属している、ということですよね。つまり、呪術対科学という対立の中で、奇蹟は、むしろ科学の側に属している。(略)


日本人には、奇蹟と呪術は、むしろ似たようなものに見えてしまう。」



「O なるほどね。おそらくマルクス主義だけでなく、啓蒙主義以降の、合理的な自然科学の世界観というのも、宗教の足かせを否定しながら出てきたみたいに言われるわけですけど_もちろんある意味ではそうですけど_、しかし、もうちょっと深く考えれば、むしろ宗教的な伝統から出てきたという側面の方が強いんですよね。マルクス主義だってむしろユダヤ教以上のユダヤ教みたいなところがあるわけですよ。


H そうそう。

O たとえば、マルクス主義者は「貨幣物神」はけしからんと言うわけですが、それはまあ偶像崇拝の批判なんですよね。ほんとうは。もっと本当の神様は別のところにあるぞという論理ですから。


「科学的」と言われる世界観はユダヤキリスト教を否定したというよりも、それをより徹底させたというか、ヘーゲル風に言えばアウフヘーベンしたみたいなことがあるわけです。


しかし、われわれはそれを「否定した」というふうにとってしまうので、
科学的世界観とユダヤキリスト教的な世界観が対立しているという側面だけを見てしまう。


しかし、ユダヤキリスト教的な世界観の中から出てきた合理主義というものがある、ということを押さえておかなくちゃいけないと思います。このことは第三部でさらに突っ込んで考えて行きましょう。」