読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

人間にとって法とは何か

「2 厳密ルール主義

ユダヤ教の厳格さ

ではこの契約の中身は何かと言うと、これはユダヤ人の発明なのですが、ユダヤ人社会のルールそのものである。(略)


これらは、はじめは暗黙のルールだったかもしれないが、それを全部、ルールブックに書き出してしまうわけです。そうすると、こうしたルールがすべて確定する。全部列挙してしまうと、草野球のようなものだったユダヤ人の社会が、ルールブックのある公式プロ野球のように、これ以外にはどうしようもないという、カチンカチンの社会になってしまうわけです。そして、これが目的なんです。



それにとどまらず、このルールブックを、神との契約、神の命令というかたちで、法律にした。そうすると、ユダヤ人としての生活を送ることが、神への義務になってしまいます。それがユダヤ教です。



以上のようなユダヤ教の骨格は、バビロニアに攻められて、「バビロン捕囚」にされてしまう前後の時期に大慌てでつくられた。(略)



若者は、バビロンのほうがいい、ユダヤ文化なんかみっともない、という考えになりがちですが、そこはユダヤ教の教育をしっかりしたために、ユダヤ人としてのアイデンティティを失うことがなかった。



ユダヤ人の生活様式はなぜ二千年も保たれたか

「バビロン捕囚」を解かれて、元のパレスチナに戻ったユダヤ民族は、やっぱりヤハウェを信じて、ユダヤ教の法律を守ったのがよかった、とますます信仰を固めます。(略)



そして、パレスチナにいてはいけませんと言われ、世界中に散らばって行ったのです。これを、離散(ディアスポラ)といいます。世界中に散らばっても、ルールブックがあるから、どこに行ってもユダヤ人として生活できるのですね。そして二千年の長きにわたって、ユダヤ人であることを保ち続けた。そしてまたパレスチナに戻ってくるわけです。ほかにこんな民族はいません。



どうしてそういうことが可能だったかというと、自分たちの生活のルール、生活様式の全部を法律化してしまった。(略)



これがユダヤ教であり、憲法の、おおもとの考え方になっていくのだと思います。これを私は、「厳密ルール主義」とよんでいます。(略)



3 律法と注釈の体系

ユダヤ教の経典について

ユダヤ教聖典を、タナハといいます。(略)
律法(ユダヤ教の法律)は神様が決めたことになっているので、人間には代えられません。ユダヤ教では、法律が変化しないという特徴がある。これに対して、憲法にはうう改正手続きがある。ここが律法と憲法との違いです。



注釈はしばらくすると、書物に編集されて、まとまります。最初にミシュナという注釈ができました。ミシュナが固まると、こんどはミシュナに対する注釈があらわれ、タルムードとして、また編集されました。(略)だんだん増えていくわけです。(略)



わずかこれだけの本分が、こんなにふくらんで、全部、法律です。これだけでも大変なのに、それ以外の書物ももっとたくさん読まなくては法学者になれません。ラビというのは、こういうことをやっているのですね。(略)


少なくとも、神の律法と同等な法律はつくれない。これが一神教の考え方です。



後でのべますが、イスラム教もこの点はまったく同じです。そうすると、人間には、憲法=最高の法律は、イスラム教の考え方から言うとつくれないのです。そうすると、議会制民主主義は生まれないことになります。



そこでイスラム教徒は、とても困ります。それだけでなく、資本主義的な市場経済もやりにくいのです。そういうことを、イスラム教のところで話したいと思います。




第5章 キリスト教と法

文明論としての「宗教と法」

それでは、ユダヤ教に続けて、キリスト教をとりあげ、宗教と法律の関係について、もう少し考えてみましょう。
なぜ宗教と法律の関係に注目するのか。それは、たんに宗教と法律の関係を考えようとし宇ことではない。その宗教を信じている人、その宗教のもとで生きている人は、現実に何億人、何十億人と居る。



その人々は、その宗教固有の法律の考え方に馴染んでおり、そういう考え方で現実に生きている。そうすると、他の宗教に馴染んでいる他の人々のことが、お互いに奇妙に見えるのですね。



日本人はこれらの宗教のどれとも、つかず離れず、あまり真剣に宗教的に生きていません。そしてまた、宗教についての独特の考え方を持っています。この点については後にお話ししますが、そういう日本人から見ても、宗教を信じる人々の法律の受け止め方は、大変奇妙に映るわけです。



お互いに奇妙に見えているということは、実は錯覚で、たんに互いに違っているだけです。感覚的にうけつけないとよく言いますが、それは誤解にもとづくものです。相手の身になってみれば、自然に生きているとわかる。そこでやるべき事は、実際にそれぞれの宗教を信じる人々がどう生きているか、その内実を知ることではないか。



それを「宗教と法」というかたちで取り出すわけですが、言ってみると、これは文明論である、というふうに考えられる。最近、文明論がとても盛んで、特にイスラム文明については、9・11以降、皆さんも関心をもっていると思いますけれども、この問題を冷静に、もっと大きな文脈の中に位置づけて考えてみたいと思います。




1 個人救済の愛の律法


キリスト教が、ユダヤ教から分かれたことは、ご存じだろうと思います。では、いつ分かれたのか。

エス自身は、キリスト教徒ではなく、ユダヤ教徒だった。もちろん、ユダヤ人です。この点はいいですか。キリスト教では強調しませんが、よく考えてみると当たり前。イエス・キリストユダヤ人なのですね。(略)


「聖書」には「~~びと」「~~びと」というのがたくさん出てくるのですけれども、いろいろ種類があります。「パリサイびと」「サドカイびと」というのは人種ではなく、社会集団の名前で、パリサイ派の法学者たち、サドカイ派の祭司たち、という意味なのですね。


あとエッセネ派(人里離れた場所で祈りの生活を送り、終末をまちのぞむ人々)もいて、全部で三つのグループがあったのですが、どういうわけか、エッセネ派は「聖書」にはあまり出て来ません。(略)



その他の「~~びと」というのはたいてい民族で、「ヘテびと」というのがいれば、これはヒッタイト人。「サマリアびと」というのがいれば、これはユダヤ教を信じてはいたのですが、差別され、北方に住んでいた民族です。このように、たいていは民族名なのです。


さて、では、パリサイ人、すなわちパリサイ派の法学者たちは、なぜ目の敵にされているのか。」