ところで、近代化とは何か。ヴェーバーは合理化にその本質を見ましたよね。合理化(あるいは合理性)とは何かという哲学的な問題はさておき、とりあえずヴェーバーにならって、近代化とは様々な分野における合理化の過程だと考えてみます。
逆転の兆しが出てくるのは十六世紀ごろ、つまり大航海の時代です。あるいは、宗教に即して言えば、宗教改革の頃です。
どうして、きわめて首尾一貫性が高く、合理的な宗教であるイスラム教が、しかも中世までは断然優位に立っていたイスラム教が、近代化の過程では、結局キリスト教に主導権を奪われてしまったのか。非常に不思議な感じがします。
H とても大事な点ですね。(略)
O 実際、信者の数ではイスラムの規模はすごいと思うんですよ。(略)
H (略)でも、最も根本的なところで、いちばん大事な点を取り出すとすれば、それはキリスト教徒が、自由に法律を作れる点だと思う。
O 律法がないようなものですからね。
じゃあ、ゲルマン慣習法があるから、ゲルマン慣習法を守りましょう。イギリスのコモン・ローを守りましょう。そういう法律が時代遅れになった。じゃあ、自分たちで新しい法律を作りましょう。
代表が議会に集まって、立法をしましょう。ということで、議会制民主主義が始まった。
社会が近代化できるかどうかの大きなカギは、自由に新しい法律をつくれるか、です。
キリスト教社会はこれができた。(略)
旧大陸でそこそこ安楽な暮らしが出来れば、誰が好き好んで新大陸に行きますか?
だから中国人もインド人もアラビア人も、新大陸に向かう積極的な動機を持たなかった。キリスト教徒だけがその動機を持ったのです。」