〇 橋爪大三郎著 「人間にとって法とは何か (人間学アカデミー②)」を読んでいます。最近はほとんど本を買うことが出来ないので、持っている本をもう一度読み直すか、図書館で借りるか、古本屋で見つけた本を読むか、のどれかになります。
これは、古本屋で見つけて読む気になりました。
感想は〇で、抜粋は「」でメモしていきます。
「第一章 法とは何か
1 法とは強制をともなったルールである
人間の社会になぜ秩序は必要なのか
ものごとは、定義をしないと始まりません。
法を定義しようと思うと、いろいろに定義できるかもしれませんが、「法とは強制をともなったルールである」と言えるかと思います。(略)
人間が大勢で生きて行くうえで、先ほどものべたように、誰もが、幸せを追求する。別の言い方をすれば、自分のことばかり考えてわがままに生きて行く、という意味でもある。わがままに自分中心に生きて行けば、とうぜん他の人間との摩擦や衝突が起こります。
人間は自由で、誰もが幸福追求権を持っています。しかし、集団としてのまとまりをもって生きて行かないと、自然災害などもあったりするので、自分の幸福すら追求できないということになります。そこで、人間が大勢いるときには、無秩序ではなく、何がしかの秩序が必要になります。(略)
法と強制力の問題
(略)
そこで、どんな社会でもそうなのですが、そういう場合には無理やり、有無を言わせず、力ずくでルールを実現するんだ、という制度を持っているわけです。
それで、さまざまなルールのうち、そういう強制力によって裏打ちされているものを、法律というわけです。(略)
法はなぜ正しいのか
(略)
どうしてこのことを、みんなが受け入れるのだろうか。たとえば、誰だって死にたくない。でも、人殺しの嫌疑をかけられて、間違えて死刑にされてしまうということも、ないとは言えない。そんな嫌なこと、そんな理不尽なことを、法律は含みうるのだけれど、それでもいいとどうやって認めることができるのだろうか。これが次の問題です。
それは法律が、必ず背後に「正しさ」を含んでいるからだと思います。法律は、誰でも同じように扱うという点で、公平である。つまり「正義」なのです。正義なんだから、正義を貫くために、ある個人が事後的に文句を言っても、最初からそういう約束だったのです。
借金のカタは取り立てていい、殺人犯であれば死刑にしていい。そうみんなが思っている。みんながそれでいいと思うという点が、「無理やり」という物理力の背景になっている。(略)
強制力、執行力の根元は、法律をそういうものだとして受け止めているすべての人々、と考えられると思います。「一般意思」とルソーよんでいるものが、だいたいこれにあたると思うのですが、一般意思が正義や公正を体現しているのです。
それが強制力、物理力を生み出していて、法律の根拠をあらしめている。
法律の正しさが疑われるようになると、それは法律ではなくなってしまい、混乱状態が生まれます。ですから法律は、内容的にも正しく、人々を公平に扱っているという点が大事なのです。
2 法の強制説(命令説)vs 法のルール説
法の強制説とマルクス主義
(略)
十九世紀になって、「法の強制説」が出てきました。これは、イギリスのジョン・オースティン(Jhon Austin 一七九〇~一八五九年)という人が唱えたものです。(略)
法の強制説は、法律はルールの外見をとっているけれど、その本質は強制にあるのだ、という考え方です。あるところに王様がいて、権力を持っていて、命令を発して、それをみんなに押し付けたので、法律になりました。
法律になったので、仕方なくみんなが従い、だんだんルールになったけれども、もともとは強制である。無理やり人に言うことを聞かせることである。このような学説です。
多少とっぴな学説に聞こえないこともないですが、このオースティンの学説は、日本ではあんまり知られていません。でも、これとそっくりの考え方の学説が、日本では非常に有名で、流布しています。それが、マルクス、レーニンの法律の考え方です。
マルクスは「共産党宣言」という本を書きましたが、マルクスによると、人間が平等に扱われるなんて真っ赤な嘘であって、どんな社会にも階級がある。搾取階級と被搾取階級が、階級闘争を繰り返している。この社会もそうです。法律は、その闘争の外見を覆い隠すためにある、というわけです。
たとえば、法律では所有権を認めています。誰の所有権も平等に保護されるという。でも、何も所有していなければ、所有権など無意味です。いっぽうに、そういう無産階級の人々がいる。(略)
マルクス主義の考え方は、皆さんご存知のように、戦前・戦後の日本に、かなり大きな影響を及ぼしました。そこで、このように法律を理解する人もいるのです。このように理解したのでは、法律を一生懸命研究しようとか、よりよい法律を作ろうとか、法律の正義とはなんだろうかと哲学的に考えるとか、そういうことは馬鹿馬鹿しくてやってられません。
むしろ経済学を勉強したり、革命の戦略戦術を考えることが知識人の役割である、ということになる。当然、法律をそれ自体として研究するという熱意、エネルギーは下火になってしまいます。そこで、マルクス主義系の、あるいは左翼系の人々は、よい法律を作ろうという動機が少なかった。
なぜ法のルール説を採るのか
私も昔は、どちらかと言えば、そんな感じだった。でも、その後考えてみると、よりよい法律を作る努力、よりよい制度をつくる努力は大切である。どうしてかと言うと、どんな社会にも制度や法律はあるので、よりよい法律をつくろうと提案しないのは、現状のままでいいと言っていることと同じだということに気がついたからです。
何も提案しなければ、現状のままです。どんなにズタボロのひどい制度であっても、それでいいと言っているのと同じです。法律や制度はこんなものだ、とあきらめてしまえばこの世は良くならない。制度、法律は、われわれの生活に日々直結することですから、やはり、はじめから投げてしまわないで、関心を持とうではないか。そう考えた。
それには「法の強制説」に立っていたらダメなのです。どうしても「法のルール説」に立たないといけない。強制というのは外見であり、私たちが自分を守るためにルールに自ら従っているのだ、という考え方に立たないとダメなんです。
そこで、マルクスやレーニン、オースティンみたいな考え方ではなくて、法律に対する別の考え方はないだろうかと探したところ、英米法の伝統のなかに(オースティンもイギリスの人なんですが)ハート(H.L.A.Hart)という人がいることがわかった。
ハートは「法の概念」という本を出しています。みすず書房から翻訳が出ています。(略)法律がいかに強制ではないかということが、その本の半分以上をつかって、延々と書いてある。
はじめ、なんでそんなに熱をこめて議論をしているのか判らなかったのですが、法律が強制ではなく、ふつうの人民、市民が自然に生み出した、自生的な秩序であるとするならば、それこそ民主主義の根源です。
このことを証明できなかったら、民主主義社会は存立できない。だからそれを一生懸命証明しようとしているのだ、ということがわかりました。
このあたりの議論は、私の「言語ゲームと社会理論」の第2章に、みっちりと書いてあるので、興味のある方はそちらをお読みください。
ルール説による証明
では、「ルール説」による証明はどうなっていうrか。
強制はルールを生み出せない。強制はあくまでも外側から行為を強制しているだけ。本人が納得しないかぎり、自分が守る決まりとは言えない、とハートは言う。
ルールは強制力がなかったら、ルールとして機能しないのではないか、と強制説は述べるだろうが、ルール説によると、いやそんなことはない、強制の根拠はルールである、ルールの根拠はルール自身にある、ルールはそれ以上の根拠を必要としない。そういうようなことが、いろいろとかいてあります。
要するに、強制はルールを生み出すことは出来ない。けれども、ルールは強制を生み出すことが出来る。だから、ルールこそ法律の本質だ、という主張です。(略)」
〇 少しわかるのは、私たちには「ふつうの人民、市民が自然に生み出した自生的な秩序」を作る能力がない。「それこそが民主主義の根源」だというのに、その根源がない。
平等とか公平を求め、「上から目線」に異常に厳しいくせに、本物の「上からの力」には、少しも抵抗しようとはしない。ただ、弱い者いじめの時にだけ、そういう。
上からの強制力に身も心も痛めつけられて来たので、そのうっぷんを弱い者にぶつけて、うさを晴らす習慣が骨身に浸みいている。共に力を合わせて公平や平等を作り出し、秩序を作る能力が全く育てられずにいる。
だからこそ、今もあの安倍総理の不正を平気で見逃している。
やっと、今、自由を知っている人々が出て来たので、ここから、そちらの方向へ向かって行くと思いたいけれど、権力者は、憲法を変え、「基本的人権(人間は自由で、誰もが幸福追求権をもっている)などはない」という社会にしようとしているのが、恐ろしいと思います。