読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

人間にとって法とは何か

「第12章 国際社会と法

1 国際社会(international community)とは何か

国際紛争は誰が調停するのか

これまで国家の内部、ある法のシステムのもとでの問題について話してきました。これとともに、もうひとつ、法律と国家や社会の問題を考えるときに大事なのが、複数の国家の間の関係である、国際社会です。最後に、国際社会と法律について、考えてみましょう。



国際社会。そんなものはあるようで、実はないのですが、国際社会とは、主権(sovereignty)を持った国家(nation)の集まりです。いろいろな国が集まっているところを国際社会 international communituy と言います。


国際社会の特徴は、国際社会には上級権力がないという点です。国と国が争った場合、誰かが出て来て、争いなどやめにして、こういうふうにしなさいと命令し、一件落着する。そんなことは無理だということです。



国連などがありますが、それはできかけで、国家を超越する独立した権力ではないのです。これが国際社会です。(略)


慣習法としての国際法

国家の間に、こうしたプラスの関係とマイナスの関係がおりめぐらされているのが、国際社会の現実です。
国家は独立していますから、自衛権を持っている。そして、対等ですから「同害報復の権利」を持っている。目には目を、歯には歯を、という権利のことです。(略)



たとえば戦争のとき、相手国の攻撃で民間人が死んでしまうと、報復で、都市を無警告で無差別爆撃する。これも同害報復の考えによっています。


広島・長崎に、無警告で、原子爆弾が投下されたというのも、法律上の論理からすると、その前に日本が中国の重慶とかオーストラリアのダーリンとか、無警告で民間人に向けた無差別爆撃を行っていたから、その仕返しであるというものです。


これも、現在でも有効な論理です。民間人はいい迷惑ですが、これが国際法なのです。
同害報復の法理を認めないと、どうなるか。凶悪な国家が、非道な国際法違反のやり放題となる。結局、大勢の人命が失われ、人権が損なわれてしまう。それを防ぐため、同害報復には合理性もあるのです。」



〇 ナチスユダヤ人を大量虐殺したので、ユダヤ人はドイツ人を虐殺してもしょうがない……「虐殺されてもしょうがない自分たち」という意識がある時、本気で国のあり方を考えるようになるのかもしれない。

日本人には、被害者意識(国にだまされ、兵隊にされ殺され、原爆を落とされた)という意識しかなかったので、未だにあなた任せなのかもしれない。

「2 国際法は法なのか

国際法に強制力はない

では、国際法とは何かということですが、これはなかなかわかりにくい。どうしてかというと、国際社会が従う慣習的なルールを国際法と言うのですが、必ずしもルールブックのようなかたちで、一冊にまとめて出版されているわけではないからです。



そこが、「六法全書」のある法律と違う。国際法は慣習法なのです。(略)




そこで学者のなかには、制裁がないのだから、ルールではない、国際法は法律ではない、そう唱える人もいます。でも、第2章に紹介したハートの「法の概念」によると、国際法も立派な砲である、それは慣習法なのだと言っています。私はこの考え方の方に、説得力があると思います。
私も、以下、この考え方に従っていきます。




国際法憲法、どちらが上位か

国内法と国際法の関係を、もう少し踏み込んで考えてみましょう。
ある社会があり、政府があり、いろいろな法律があったとします。憲法もある。憲法はその国の最高法規ですから、その国の法律はどれも憲法と矛盾してはならず、憲法と整合的に出来ている。



このように憲法最高法規なのですが、ひとつの問題は、別の政府と条約を結んだ場合です。国際社会があって、国際法が成立している場合を考えてもよい。そのとき条約や国際法と、憲法との関係はどうなるのだろうか。(略)



ふつう、ある国の範囲は、隣の国と平和条約などを結んだ際に確定していくものです。ある国が自分の主張で自国の範囲を決めるということは、やってできないことではないかも知れないが、国際法上の効力があることではありません。国の範囲がどうやって決まっているかというと、国際条約によって決まっているのです。


サンフランシスコ平和条約が一九五一年に結ばれました。そこに、ポツダム宣言を尊重し、と書いてある。ポツダム宣言を見て見ると、日本国の領土は、本州、四国、九州、北海道、およびそれに付属する小さな島々とする、と書いてあります。



日本国は独立するときに、それを尊重すると約束したから、日本の領土はそのように決められているわけです。



領土を超えて主権を拡大することを侵略と呼ぶわけですから、侵略という概念が成り立つためには、領土という概念が必要です。領土のなかで何をしようと、その国の自由です。その重要な概念が、条約や国際法によっている、という点を注意したいと思います。」


〇 ここを読みながら、つい先日、プーチンさんに日本はポツダム宣言を受け入れたのではないか。(だから北方領土などというものはない)」と言われたことを、思い出しました。


東京裁判の問題

次は東京裁判の問題です。極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で、日本の国家指導者がA級戦犯として裁かれました。
サンフランシスコ平和条約を結んで独立するときに、東京裁判の判決は効力を維持するべしと書いてあり、あとであんな裁判は知りませんと言わない約束をしました。



それが独立の条件でした。もしそれを反故にしてしまうと、日本が平和条約を破ったうことになります。
日本が平和条約を破るとおづなりますか。
これは戦争になるわけです。再び連合軍が組織され、日本に対する戦争を再開することになります。そう考えるのが、国際常識です。



平和条約を維持する義務が日本国民にはあるわけだから、その義務はある意味では憲法以上です。憲法は日本国民の自由な発意で、いくらでも変えられます。(略)



でも条約は相手があるわけなので、日本国民の一方的な意思では自由にはならない。その意味では憲法以上です。
本の学校教育は、何かというと憲法憲法というけれど、条約のことはほとんど教えません。この点は、たいへん問題だと思います。




それで東京裁判の話ですが、大日本帝国政府は、主権国家として戦争を行ない、そして敗けました。この戦争は、国内法にもとづいて合法的に進められていたわけで、国民は政府の動員によって戦地に赴き、戦闘行為に従事したわけです。法的にみて、ノーマルな事柄だった。




さて戦争が終わってみたら、新しい国際法が確立していたということになりました。これには人道に対する罪、平和に対する罪、というものが書かれていた。(略)




まず、国際法があることになっているが、この国際法がいつから存在したのか。人道に対する罪、平和に対する罪というものが法廷で取り上げられ、有罪の判決が下ったのはニュールンベルク裁判が初めてで、ニュールンベルク裁判は一九四五年の五月にナチスが降伏した後の十一月に行われています。



それより前には、どの法廷でも、そういう裁判は行われなかった。つまりこれは、第二次大戦が始まってから、事後的に考えられた法律である可能性があります。
刑法には大原則があり、それは、その行為が行われた後に法律を制定して、その行為処罰してはいけないというものです。これを事後法禁止の原則と言います。(略)




とは言え、国際法には、覇権国の行動が国際法になる、というもう一つ有力な法理があります。戦勝国であるアメリカなど連合国が裁判を行ない、確定したのだから、戦後の国際社会の有効な国際法を構成していると考えないわけにはいきません。この法理に、私は大きな説得力を感じます。




国際法は訂正できない?

国際法が妥当でなかった場合には、どういう問題が起こるか。
東京裁判A級戦犯の有罪判決を、日本国民としては困るわけです。どう困るかというと、国際法の原則として、いったん確立した国際法や条約は、国際秩序の一部になっているから、あとから、誰かの主張でそれを覆そうとすると、甚だしい場合には戦争になってしまいますし、たいへんな不都合を及ぼします。




現在の国際秩序は社会秩序の基礎であり、現状維持に大きな利益があるわけだから、現状維持は正義である。日本もそこから利益を得ている。現状でみんなが納得しているものは、蒸し返さない。それは正義である。こういう考え方があります。これも法律の大事な考え方です。




合理的な考えですが、しかしその反面、妥当でない国際法、たとえば国家の職務を果たしただけの国家指導者が、人道に対する罪、平和に対する罪で裁かれるというのは、正義と人々の権利に反しており、このような不正義を暴き立てて現状を変更するのには、意味がある。こういう考えも成り立ちうるわけです。



この二つの考えのあいだで、日本国民は、たいへんに迷うわけです。現実的に考えるならば、いまさら東京裁判が不当だったと議論を蒸し返し国際社会に訴えることはとても非現実的で、自分たちの利益にもなりません。



でも、科学的合理的な批判精神として、それが妥当であったかどうかということを、言論のかたちえで提起することは自由であるべきです。ということで、決着のつかない論争の中に、日本国民はずっと巻き込まれています。これをどう乗り越えたらいいか、私にもいいアイデアはないのですが、批判的認識を磨きつつ辛抱を続けるしかない。」