「3 公共性とは何か
家族・公衆・ルール
さて次に、公共性について、ここできちんとまとめておきましょう。
国家イコール「公」というふうに明治以来考えて来て、いまでも心のどこかになんとなく「お上(おかみ)」の意識があって、官僚が偉くて、その下に民間というものがあって、とそんなふうに考えている日本人が多いのではないかと思います。
その考え方から脱却するために、公共というものを、もう一度考え直してみる必要があります。私がどう考えているか、のべてみたいと思います。
公共は形容詞でいえばpublicで、公衆というとthe publicといいます。
イギリスにはパブ(pub)というものがあって、ブルーカラーのお兄さんやおじさんたちが、働いたあと、家に帰る前に街の居酒屋のようなところで、一杯飲むわけです。
ビールかなんか飲んで、ソーセージをつまんで、サッカーチームがどうしたとかワーワー騒ぐわけです。そして家に帰るのですが、その一杯飲み屋をパブという。
どうしてそこがパブなのかと考えてみたのですが、これが公共性というものの、いちばん根源的なあり方なのではないか、と思いました。お酒を飲むところはとりあえず、おいておくとして、「ワーワー」言うというところですね。
すべての社会は、前ページの図のようになっています。
人間の社会の特徴として、家族と社会が分離している、ということがあります。
家族とは、夫婦なり、近しい人間が集まって集団生活をしていて、生計を共にしていて、生まれて来たら面倒をみて、死にそうになったら面倒をみます。
それは利害打算を離れたところにあるものです。すべての人がすべての人にそういう面倒をみるのは大変なので、小さいグループに分かれ、たいていの人はどこかに属する、というかたちでやっているのが家族です。その家族が無数に集まって社会ができている。
そうすると、人間の関係には、二種類あることになります。家族の内部での人間の関係と、家族をまたいだ、家族以外の人たちとの人間関係の二種類です。(略)
しかし人間は数人しかいないし、年代もバラバラだし、具体的なこういう人、ああいう人、ということがとてもよくわかっているし、たいていのことはルールなんか決めなくても、ちょっと相談したり誰かが決めたりすれば、その場その場で解決します。
社会全体で、何かしようということになると、必ずしも相手の全人格にかかわっていない、顔見知りではない、そういう関係の人々と相談して何かを決めなくてはいけない、という状況が生じます。(略)
他人同士ですけれども、ふつうのおじさん、おばさん、お兄さん、お姉さんが集まって、社会をつくっていることに対して責任をもっている状態。それが公衆ではないかと思うのです。ここで「ふつう」というのは、そこに参加するのに、学歴とか収入とか知識とか、特別な資格は何もいらないということを言っています。
公衆とは公共そのものである
公衆は、家族よりも大きい範囲の人びとの集まりで、他人同士ですからルールが要ります。
この公衆が、何かをやってほしい場合には、仕事を委託し、エージェント(代理人)を雇う。
そして、何か仕事をしてもらう。委託するからにはその費用や対価も払います。それが税金です。(略)
まず、どうして政府が公共のものかというと、公共性の根本はふつうの人々にあって、ふつうの人々こそが公共的なものです。そのふつうの人々の問題を解決するために雇った代理人が政府なのであり、だから政府も、その限りで公共なんです。(略)
政府よりも、公衆が公共1であり、こちらが根本なのです。「官・民」の関係ではないのです。こう考えるべきだというのが、私の提案です。
この公衆の人びとが、いろいろとコミュニケーションします。
まず物の売り買いをします。(略)これはすべて、彼らふつうの人々が生きて行くために必要な事ですから、まさに公共の活動です。
それから、ふつうのおじさん、おばさんのあいだで、言葉が交わされます。(略)
これが発達していくとジャーナリズムになる。このジャーナリズムが、政府を監視する役割を果たすわけです。
ジャーナリズムの基本は、ふつうのおじさんやおばさんが、家族を離れて、社会のなかで言葉を交わすということで、これも公共性です。
政府の場合には、特定の目的を持ち、ひとつだけつくり、その費用を税金というかたちですべての公衆から集めることができる権限を与えられている、という点が特徴です。
彼らは、公衆に対して、自分たちが委託されたとおりの仕事をしているということを、日々証明する義務がある。さもなければクビです。こういう関係になっている。(略)
このように認識すること。しかも、徹底的に認識することが、日本を再組織するのに、いちばん大事なことだと、私は思います。」
〇 昔、PTAの「仕事」で職員室に出入りしていた頃のことです。同じPTAのお母さんが、職員室の事務の人を「崇め奉る」言動をするのに、びっくりしたことがあります。まさに「お上」に対する態度のようなのです。
そんな感覚の人が実際にいる、というのは事実です。