読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

女子大の「実学志向」は自滅への道

「終日原稿書き。入学センター課長から年末に「一月一〇日までに八〇〇〇字お願いしますね」と頼まれたのである。(略)

うまくゆくかどうかわからないけれど、とりあえず業務命令であるから、さくさくと「どうして女子大は必要なのか?」ということについて書く。

 

 

 

書いているうちにだんだん腹が立ってくる。

課長に対してではなく、「女子大は必要ない」という政治判断を支える経済合理主義的発想そのものに対する憤りで、身体が小刻みにぷるぷる震えてきたのである。

 

 

私はもともと男女雇用機会均等法をめぐる議論あたりから、「ぷるぷる」していたのである。

この法改定はご存知の通り、雇用機会における性差別を廃したものであるが、そこに伏流する雇用と性の関係についての基本的な考え方のうちに、どうしても私には飲み込みにくいことがあった。

 

 

均等法の前提にあるのは、「男女は同一の社会的リソース(権力、財貨、威信、情報、文化資本などなど)を競合的に奪い合っており、女性はこの競争で不利なポジションを歴史的に強いられている」という考え方である。

 

 

話の前段を「真」とすれば、後段も「真」である。

だが、私はこの前段にひっかかるのである。

間違っているというのではない。

「男女は同一の社会的リソースを競合的に奪い合っている」という言明が「事実認知的言明」であるのか「遂行的言明」であるのか不分明である、というところがひっかかるのである。

 

 

 

ご存知でない方のためにご説明するが、「事実認知的言明」というのは言語学者オースチンの用語で「客観的事実を叙述することば」のことである。「いま九時半である」というようなのは事実認知的発話である。

 

 

それに対して、「遂行的言明」というのは「あなたを生涯愛します」というような、話者自身がその言明内容が「真」であることを主体的に実現してゆくことを誓約する種類の言明のことである。

 

 

その上で申し上げるのであるが、私には「男女は同一の社会的リソースを競合的に奪い合っている」という言明が事実認知的であると同時に遂行的であり、むしろ遂行的であるところに政治的意図があるように思われるのである。

 

 

妙に世知に長けた野郎がなれなれしく肩に手を回して「な、ウチダ、そういうもんなんだよ。世の中、所詮、色と欲だよ」というようなことを言われたときのような、「べたっ」とした気持ちの悪さを感じるのである。

 

 

この訳知り男の言明は事実認知的であると同時に遂行的でもある。「人間はさまざまなモチベーションで行動する」という私の「世間知らず」を矯正しようという政略的意図きらかに含んでいるからである。

 

 

均等法に私はそれと似たものを感じたのである。

「要するにみなさん、ぶっちゃけた話が、いい服着て、いい家住んで、美味しい物喰っていい車のりたいんでしょ。ねえ、本音で行きましょうよ、ウチダさ~ん」というようなことを耳元で言われたようなべたっとした不快感を覚えるのである。

 

 

たしかにそのような言明は大多数の人間にとっては自明の真理であろう。けれども、「いや、世の中そういうことばかりじゃないでしょう」という人々が少数なりとはいえこの世にはいるし、いないと困る。そして、人類史上、世の中をこれまでより少しでも住み易くする方向に貢献した人々のほとんどはこの「そううじゃないでしょう派」に属する。

 

 

 

性間の社会的差別を廃絶して、女性にサクセスする機会を解放するというのは「よいこと」である。

しかし、そう言ったら、「性差にかかわらず万人は権力、財貨、威信、情報、文化資本おなどのリソースを欲望している」という条項への同意署名した、ということと解されると私は困る。私だけでなくかなり多くの人が困る。

 

 

生物のシステムにおいては、欲望はできるだけ同一対象に集中してはならないからである。

同一の空閑に生物がひしめきあって、限定されたリソースを分かち合っているときには、種によって体型や活動時間帯や活動域や食性を異にする方がシステム維持上安全である。それゆえ、生物はサイズや機能や生態を多様化している。(略)

 

 

すべての種は他の種と環境世界を「ずらす」ことで、有限の環境資源をできるだけ競合あいように利用し、おのれ自身の限られた生物資源をもっとも有利な機能に限定して発達させている。

人間も生物である以上そうすべきだろうと私は思っている。だから、「社会は同質的な個体ばかりで形成されるべきだある」という主張に軽々には与することが出来ないのである。(略)

 

 

あなたと同じ欲望を持ち、同じ行動規範に律される個体の数が増えるほど、あなたの唯一無二性は損なわれる。

だって「いくらだって替えがいる」んだから。

 

 

 

現に、労働史的に見た場合、均等法以後、労働者の労働条件は一貫して劣化してきた。

求人が一定で、求職者の数が増えれば、労働条件は切り下げられる。当たり前である。

男女雇用機会の均等は女子労働者への雇用機会の拡大であると同時に、誰からも文句があない「政治的に正しい」コストカットだったのである。

 

 

 

均等法の導入に財界が一言も文句を言わなかったという事から推して、これが労働者を保護するための法律ではなく、労働者をより効率的に収奪するための法律であることにただちに気付いてよかったはずであるのに、メディアはそのことをほとんど報じなかった。少なくとも私は読んだ記憶がない。

 

 

 

「人間なんてみんな欲しいものは同じだよ」という言明を私が「遂行的」なものではないかと懐疑するのは、この言明が「自明の前提」とされることそれ自体から構造的な利益を得ている人々が現に居るからである。

自明のことを確認しておこう。

 

 

グローバル資本主義にとって、性差は無意味であるし、無意味でなければならない。

なぜなら、グローバル資本主義とは、労働者が規格化・標準化されて、地球上どこでも同質の労働力が確保されることと、消費者が規格化・標準化されて、同一の商品にすべての消費者が欲望を抱くことを理想とするシステムだからである。(略)

 

 

だからもし、クローン技術が発達して労働者が工場で製造できるようになれば、資本主義はセックスを禁止するだろう。

個人が勝手に再生産したら、せっかく標準化した「人間の規格」にバグが生じるからである。

労働者=消費者を、性差にも国籍にも人種にも信教にも無関係に、ぜんぶ同一規格で揃えてしまうことがグローバル資本主義の夢である。

 

 

性差だけについて言えば、労働者=消費者が非性的に規格化されれば、原理的には賃金は半分になり、マーケット・サイズは二倍になる。

だから、少子化によって労働力の確保が危うくなり、市場が縮小することが死活問題にせりあがってくるまで、グローバル資本主義は性差の解消をとめどなく推進したのである。

 

 

しかし、労働条件が劣化し、消費欲望だけが亢進し、性差の社会的な価値が切り下げられた社会に投じられれば、遠からず労働者たちは結婚も出産もしなくなるだろうし、そもそもエロス的関係の構築に手持ちのわずかばかりの生物資源を投じなくなるだろうという蓋然性の高い未来予測をグローバリストたちは見落とした。(略)

 

 

これほどシンプルな歴史的シナリオにどうして気付かずに、大学人たちは高等教育をグローバル経済にジャストフィットするように「構造改革」することに孜々として努められてきたのであろうか……そう思うと私は恥と悲しみに「ぷるぷる」震えてしまうのである。

 

 

女子大の「実学志向」というのは端的に言えば「グローバル経済にジャストフィットするように教育を規格化・同質化・効率化すること」である。(略)

 

 

いま日本の大学は、学生たちをいくらでも替えの利く国際規格の標準的能力しかもっていないので、いくら安い賃金でこき使われてもそれに耐えるしかないワーキングプアとして社会に送り出す教育工場になるという自滅のシナリオを粛々と実現しようとしている。

私がぷるぷる震えるのもわかるでしょ。

 

 

というわけで、私の女子大論の最後はこんなふうに終わる。(略)

本学の創始者であるタルカット・ダッドレーの二人の女性宣教師が神戸に私塾を開学したのは太政官布告によって「キリシタン禁令」の高札が撤去された直後のことである。そもそもの最初から「そこにいるべきではない」と見なされた人によって本学は基礎付けられたのである。

 

 

そこで彼女たちが日本の少女たちに講じた英語や古典語や西洋史は当時の日本の女子教育の規準に照らすならば、ほとんど無意味なものであった。

けれどもこのささやかな学舎は間違いなく阪神間のある種の少女たちにとって心身の平安を得ることのできる例外的な場所であった。

 

 

 

それは、この小さな場所には明治の日本社会においてドミナントな価値観が入り込まず、そこで学んでいることに誰も値札をつけることが出来なかったからである。

彼女たちがそこで学んだ最良のことは、自分たちの社会とは価値観や美意識を異にする「外部」が存在するという原事実そのものであった。(略)

 

 

だから、私が言いたいことはまことに単純である。

本学は開学の時と同じく、日本社会における「外部」との通路であり続けることをその歴史的使命としている。そのためにも、学生たちを現在の社会において支配的な価値観に追随し、競争的に社会的上昇を遂げるように仕向けるべきではない。

 

 

むしろ、そのような現代社会のありように強い違和感を覚えている学生たちを迎え入れ、彼女たちが学外にいるときよりも学内にいるときの方が心身の平安と解放感を得られるような「逃れの街」であることのうちに使命を見出すべきである。それが私の結論である。

        (二〇〇七・一・一二)」

 

 

〇 う~ん… イイ!!