読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「近衛・東条の翼賛体制への痛烈な批判

 

尾崎行雄は、起訴されても発言はやめず、痛烈に政府を批判し、「憲政以外の大問題」を公表した。これはまず「(イ)輔弼大臣の責任心の稀薄(むしろ欠乏)なる事、

(ロ)当局者が、戦争の収結に監視、成案を有せざるように思われる事、否、その研究だも為さざるが如く見えること」にはじまる批判である。

 

 

それを読むと、昭和十七年の東条政権下において、これだけのことが言えたという点で、曲がりなりにも明治憲法が存続した日本は、強制収容所からガス室に連行させられたナチス治下のドイツ人より、まだましな状態にあった。そして彼が提出している問題点は、天皇が軍部にしばしば詰問的にただしたお言葉と、不思議なほどの共通点を持っている。すなわち、

 

 

「「(イ)支那事件の起こるや、彼らはこれを戦争といわず、単に事変と称し、宣戦の詔勅も請わずに、大軍を動かした。

(ロ)彼らはまた短日月間に該事件を収結し得ると誤想したものと見え、「速戦即決」と唱えたが、すでに五か年を経過しても、なお収拾することが出来ない」

 

にはじまる問題点の指摘である。(略)

 

 

「万一独伊が破れて、英米に屈服した時は、我国は独力を以て支那および英米五、六億の人民を打倒撃滅し得るだろうか。真に君国を愛するものは、誠心誠意以てこの際に処する方策を講究しなければならぬ。無責任な放言壮語は、真誠な忠愛者の大禁物である。

 

 

我国人は独伊の優勢の報に酔い、一切そんな事は、考えないらしい。これ予が君国のため、憂慮措く能わざる所以である」(略)

 

 

いま読めば当然のことを言っているようだが、これは日中友好ブームや文革時の毛沢東礼賛の新聞世論の時代に「文革はいずれ破綻する」と見てこれを批判し、日本と比較して、いずれがよいか「いかなる愚人といえども」分かるはずだと言うのと同じような、否、それ以上の困難である。独伊は毛沢東の「大躍進」や「文革」のように絶対化されていた。彼はさらにつづける。

 

 

「(略)

彼らは個人を否認すれど、国家も世界も、個人あってはじめて存立するものである。

自由も権利も保証せられざる個人の集団せる国家は、三、四百年前までは、全世界に存在した。

それがいかなるものであったかは、歴史を繙けばすぐ分かるが、全世界を通して、事実的には「斬捨御免」「御手打御随意」の世の中であった。

 

 

 

独・伊・露は、異なった名義の下に現在これを実行している。故に現代人のいわゆる新秩序新体制なるものは、数千年間、全世界各地に実行した所の旧秩序・旧体制に過ぎないのである」

 

 

 

不刑罪 —— 刑にあらざる罪

 

彼への第一審判決は「懲役八カ月、執行猶予二年」であった。これに対して彼は「不刑罪(ママ)の宣告を受けて」という声明を発表している。(略)

 

 

 

この「憲政の神様」は彼らにとって、まことにうるさい、沈黙させたい存在であった。その判決に対して彼は次のように言う。

 

 

「今回予に対して不敬問題の提起せらるるや、予は、政治的に予を葬り去らんと欲する予の政敵の毒計に基図するものと想定した。故に予は政敵の希望どおりの濫刑酷罰を受ける方が、将来、司法部改善、憲政確立の原因となり、したがって予が御奉公の一端となり、逆効果を生むだろうと考えた。

 

 

 

しかるに、予が友人中には「現在の司法部は、往時と違い、すでに大いに改善せられて、独立の実を挙げており、行政部に服従もしくは迎合する如き憂いはないから、逆効果なぞを望ますして、司法部を信頼すべき」旨を勧告するものが多かった。よって予は最初の方針を一変し、なるべく現行を温順にし、司法官の為す所に一任することに改めた。

 

 

しかしその結果は、最初予の予想したとおりであった。この結果を見て、予は法廷において思う存分に当局者を論難攻撃し、彼らを憤激せしめた方が、彼らの非行を増加すると同時に、司法部改善の原因をも増加する結果を生じ、したがって逆効果が一層多大になっただろうと思った。

 

 

 

いや、それまで心配せずともよかろう。予を不敬罪に陥れただけでも、司法部と行政部の主従関係を証明するには、充分であろう。独伊模倣の狂風がやんで、憲政再興の時期が到来すれば、今回の羅織(人を陥れる企み)も、一動機となって、司法権独立の機運が興るであろう。もしそうなれば、予が今回の冤罪は、かえって君国の慶福を産み、平生の希望通り、御奉仕の結果を生ずるかもしれない」