読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(第三部  敗戦の思想)

〇 この「天皇の戦争責任」は、第一部 戦争責任、 第二部 昭和天皇の実像、

第三部 敗戦の思想と三部からなっていて、やっとここまで来ました。

最初は多分、最後までは読めないだろう、と思っていました。とても厚い本だし、

内容が私には難し過ぎる。

 

特に、加藤氏の言っていることが、ほとんど理解出来ません。なんとか、飛ばし飛ばし、読んで来ましたが、この三部が一番ハードルが高くて、読んでいても、少しも頭に入らない。そこで、大幅に省略することにしました。

 

第三部は、侵略とルール違反、天皇有罪論/無罪論、戦争の死者は英霊か/犠牲者か、

民主主義と象徴天皇敗戦後論、脱天皇論、の小見出しに分かれています。

その中の、戦争の死者は英霊か/犠牲者か、民主主義と象徴天皇敗戦後論、脱天皇論の四つについて、メモしておきたいと思います。

 

 

「戦争の死者は英霊か/犠牲者か

 

加藤 では、戦争の死者について考えます。

まず質問になっちゃうんですが、それから始めていいでしょうか。この対談を始める前に、橋爪さんと僕は、おたがいにメモというか、簡単なレジュメのようなものを交換してします。そこで僕がもらったメモのなかに、橋爪さんは、「戦後日本の戦争責任とはなにか。三百万人の死者をどう考えるか」という問いに続けて、「天皇の命令で、戦地へ赴いた人々は断じて正しい。それは、公民としての義務である」と書いている。

 

 

 

橋爪さんは、これと同じようなことを、竹田さん、小林よしのりさんとやった鼎談 「ゴーマニズム思想講座 正義・戦争・国家論」のあとがきにも書いていて、それを読んだ時、「こういうふうに言えるんだろうか」と僕は思った。ここは、僕と橋爪さんが、だいぶ違うところだと思う。だから、橋爪さんに「なぜこういうことが言えるのか」ということを話してもらって、そこを切り口に僕の考えを言って見ようと思います。

 

 

橋爪 わかりました。

こんなふうに、考えてみましょう。昭和十八年か十九年に私が徴兵年齢だったとして、家族もあって、それなりにものごとを考えていて、新聞も読んでいて、それで赤紙がきたとする。そうすると、いろんなことを考えると思います。

 

 

まず真っ先に、戦争に行けば死ぬ可能性があり、死んだあと家族がどうなるかということを考える。それから、この戦争が正義の戦争なのだろうかということを考える。大東亜共栄圏とかアジアの解放とか、そういうイデオロギーがいろいろ宣伝されているが、どうも嘘くさく、実態としてはだいぶ違うようだと考えるかもしれない。

 

 

戦争をこのまま続けて勝てる見込みもないし、中国の戦線から帰って来た人たちに聞けば、そうとう非人間的なことを兵士としてさせられる。普通の良識ある市民、社会人として生きることを大事に考えてきた私の生き方とたいへん違っていて、実に困ったことだし、いやなことでもある。

 

 

だけど、ここで応召する以外、ほかにどういう方法があるだろうか。となりのおじさんも応召していて、このあいだ戦死して遺骨が帰って来た。いま、私が逃げ出せば、戦争が終わり平和になるのかと言えば、そういうことでもない。いろいろ悩み考えて、それで苦慮の末、やはり戦地に赴くのではないだろうか。

 

 

良心的兵役拒否というような制度がある国なら別ですが、少なくとも日本帝国憲法のもとではそういう規定はなく、すべての人たちがいろいろな犠牲をはらいながら、その任務を分担しているわけです。そこから自分だけが降りてよいというふうには、たぶん考えにくいと思う。(略)

 

 

 

加藤 わかりました。でも、そうだとするなら、僕は戦争に赴いた人々を「戦争に赴いたということをもって断罪するのは断じて間違っている」という言い方になると思います。それだったら問題はない。だけど、橋爪さんの言い方だと、この戦争がどんな種類の戦争であろうと、天皇の命令で「戦争に赴いた人は断じて正しい」ということになるでしょう。

 

橋爪 それは、いわば現代ルールだと思う。

 

 

加藤 (略)なんで「正しい」という言い方になるんだろう。

 

(略)

 

 

橋爪 (略)なぜ「正しい」と言うのかというと、みんながそういうふうに分担しながら、ひとつの国家を担っているからです。戦後の日本国であれ、大日本帝国であれ、アメリカ合衆国であれ、みんな同じ論理で、公民としての義務を分担している。侵略戦争であるとか、自衛戦争であるとか、それから反ファシストせんそうであるとか、そういう戦争の種別の違いはあると思います。しかし、これは侵略戦争だから私は行かないとか、これは反ファシスト戦争だから喜んで行きますとか、そういうレヴェルではないところで、この公民の義務は発生してくる。そういう不幸なメカニズムがあるんじゃないですか。

 

 

そういう「正しい」行為を黙々と行った人々の、正しさの延長上に戦後の日本国もある。戦争を防ぐんだったら、もっと別のところでやるしかないのであって、戦争になって召集令状がきたときではもう遅いんです。

 

 

竹田 たとえば極端な話で言うと、ナチス政権下で、あるドイツ人が民主主義的な考え方を持っていたとする。(略)自分たちのやっていることはあまりにもひどい、明らかに間違った戦争だと、その人は考えている。そういう人がいたとして、それでも徴兵がきたらそれに従うことが正しい、それに従わなければ間違っているということになるかな?

 

橋爪 いや、従わないから間違っている、とは私は言いません。

 

 

竹田 橋爪さんの言い方は、ちょっとそういう意味に聞こえるふしがある。(略)

 

 

(略)

 

 

竹田 なるほど、それはよくわかる。間違った軍国主義にかぶれて悪い戦争にいった日本の兵士たちはみな悪かった、という言い方から彼らを擁護しようとする橋爪さんの姿勢も「断じて正しい」と思います(笑)。でも、その「断じて正しい」のポイントはなんだろう、という感じがやっぱり残る。

 

 

つまり、そのポイントが当時の「合法性」から言って、ということだとしたら、天皇の法的責任なしというのとほとんど似てるよね。「三百万人の死者は戦争に加担したんだ」という言い方は、僕も全然認めない。だから橋爪さんとは、その先のところで違いがある。

 

 

橋爪 戦死者の内実ということなんですが、ふたつの考え方に反対したいと思うんです。

ひとつは、軍部が悪く、軍部が国民を操作し、国民を騙し、そして戦争に参加した人たちは騙されて戦争に連れ出されて死んだ犠牲者であり、彼らに罪はないというもの。私はこういう考え方はしたくない。なぜかというと、もちろんいろいろ情報が不備だったかもしれないけれど、彼らは精一杯に判断し、精一杯にコストを担うつもりで、主体的に積極的に戦争を担おうと思って線上に赴いていると思うのです。

 

 

 

そこまでの決意がなければ、あれだけ厳しい戦地で、絶望的な状況で、戦線をもちこたえたりするなんていうことはありえないわけですよ。だからそういう意味では、たいへんに主体的に参加している。騙されたという言い方は、彼らの人間性を冒瀆するものです。

 

 

しかし、もうひとつ、逆にどういうことを私は言いたくないかというと、あれは大東亜戦争だった、アジア解放の戦争で聖戦で正しかった、彼らはそれを真に受け、そしてそういうイデオロギーに鼓吹されて、尊皇主義者ないし天皇主義者として、そういう人間として戦地に赴いて死んだんだと。

 

 

こういうふうにも私はまったく言いたくない。大部分の兵士たちは、そんな宣伝がでたらめであり、いい加減であり、軍部の指揮系統もどうしようもなく、まったくめちゃめちゃで、自分たちは犬死のようなものだと参加したんだと私は思う。

 

 

 

そのふたつの中間に戦争を担った人々の実態があった、疑念や不満をもちつつも義務をひき受けた人々の信念があった、ということを言いたいのです。

 

 

加藤 でも、それだったらこの書き方は違うと思う。僕には、この橋爪さんが書いた「天皇の命令で、戦地に赴いた人々は断じて正しい。それは、公民としての義務である」という二行は、小林よしのりが言っていることと同じに読める。小林氏が言っているのは、「断じて間違ったいる」ということのまったくの裏返しでしょう。でも、「断じて正しい」という言い方と、「断じて間違っている」という言い方は、両方とも間違っていますよ。

 

 

 

そもそも、天皇の命令で戦争に赴いた人々を、その事実をもって非難したり、ほめたりすることが間違っていると思う。その行為が、どのようなその人の判断の結果だったかはわからないし、後から述べるように、僕たちはそうできるほど戦争の死者たちのメタレヴェルに立っているわけでもないからです。(略)

 

 

 

とにかくここでは国民を批判することによってではなく、むしろ国民の名で、国家の不正を批判する回路をつくることが肝腎だと思うのです。でも、国の不正が、そこに生きる国民に自主的に判断されるだけの材料がそもそも与えられないということもあります。僕は第二次世界大戦時の日本はそういう事例だったと思います。その場合、大多数の国民がその点で戦争の性格を把握しそこなったこと、間違ったことには、動かし難さがあったと考えるのが妥当じゃないでしょうか。

 

 

したがって、僕達が考えるべきことは、戦争の死者についていうなら、彼らの行為を「正しい」と評価することでも「間違った」と否定することでもなく、その彼らの「間違い」を、動かし難さの相で受け止め、これに学んで、今後は同じ状況におかれても、この難関をクリアーし、誤らないようにする、という仕方を作り出すことだと思うんです。

 

 

 

三百万の死者は犠牲者だという言い方と、それは英霊だという言い方と両方あるけど、本当はそのどっちでもない。死者たちをなんとか救いだそうとして、この死者たちはこういう死者たちだったと一方的に決めてしまうと、それもやっぱりまずいという気がする。

 

 

(略)

 

 

加藤 (略)

三島由紀夫昭和天皇が戦争の死者たちを裏切っていると言いましたが(「英霊の聲」本書65頁 「注」参照)、そんなことを言うなら三島も、僕たちも、みんな戦争の死者とはそういう関係にある。(略)

 

 

 

では僕たちと戦争の死者たちはなにでつながるのだろう。

僕が、これまでの「戦争の死者は犠牲者だ、彼らの死に報いるためにも二度と戦争を繰り返さないようにしなければならない」という戦後民主主義的な考え方を欺瞞だと思うのは、ひとつは、橋爪さんが言うように、そこに戦争の死者への冒瀆に似た一方的な見方があるからですが、もうひとつは、そういう彼らの言い方に、戦後へと生き延びた同時代者たちの自己欺瞞が隠されているとおもうからです。(略)

 

 

でも、戦後の人間と戦争の死者をつなぐのは、両者がともに「国家にだまされた」無垢な存在だということではなく、両者がともに「間違った」有罪の存在で、だけどもその「間違い」には動かし難さがあるのではないかという点です。(略)

 

 

 

戦後民主主義の論者たちは、ほぼ例外なくこの点をすっとばして、あたかも自分は彼岸の存在で、ずうっと平和主義者であったかのように、彼ら戦争の犠牲者のためにも平和を、と論を立てた。(略)

その点から言えば、この「間違い」の動かしがたさという点は、天皇評価でも重要な要因になる。(略)

 

 

 

橋爪 天皇が死者たちにどういう態度をとったとか、なにも言わなかったとかを、どうしてそんなに問題にしなければならないのだろうか。天皇というのは、そんなに仮託して考えるとうまくいく場所なんだろうか。

 

 

これまで述べたように、天皇は日本人のなかで特異点のような、特別な位置を占めていて、その責任を考えるにせよ、その人格や行為を考えるにせよ、目立つけれども、非常に考えにくい人なのです。それよりもむしろ普通の人間が不通に考えた場合にどうなるか、というところで議論したほうがいいように私には思える。

 

 

普通の日本国民がこの三百万の死者たちに対してどういう態度をとっていくかとか、どういう態度がとれなかったとか、どういうふうに考えるべきなのかとか、そういうことがすっきり解決つきさえすれば、天皇のことなんてどうだっていいじゃありませんか。むしろそのことを考えていくことのほうが大切ではありませんか。

 

 

 

もうひとつ、加藤さんの議論で感じるのは、死者をうまく抽象していないということです。私が断じて正しいと言っているのは、出征した軍人が公民としての義務を果たしているという点であって、彼ら個々人の行動の何から何まで正しいと言っているわけではありませんよ。何から何まで断じて正しい行動をする人間なんて、いるわけがないじゃありませんか。(略)

 

 

しかし少なくとも、そんな場におかれてそのような非人間的なふるまいをするということは、その結果生き延びるにせよ、あるいは死亡するにせよ、本人にとっても不本意なはずで、哀れなことではありませんか。そうした行為の系列全体は、彼が公民としての義務に応え出征しなければ、生じないはずのことだった。彼がしなければ、ほかの誰かがせざるをえなかった。(略)

 

 

三百万の死者という場合、彼ら個々人の行動の個性や差異は相殺し合って捨象され、こういう側面が骨格として取りだされることになるのだと思う。そしてその側面は、この前の戦争が侵略であるかどうかと無関係に、国際ルール違反であるかどうかと無関係に、戦後の私たちのいる場所と直結すると思うのです。

 

 

誤解のないように言っておけば、以上のように考えたからと言って、侵略戦争の問題や戦時中の不法行為の問題が、不問に付されるわけではありません。むしろ、死者たちの死の意味を肯定的に受け止めることと、死者たちの行為を批判的に検証する作業とが、それではじめてきちんと両立するようになるはずなのです。

 

 

 

 

加藤 僕はそのようには戦争の死者を抽象しません。またアジアの無辜の死者の存在はこういう抽象に抵抗すると思います。でも、この点を除けば、こういう出発点に立つことで、死者たちの死を肯定的に受け止めることと、その行為の批判的検証がはじめて両立する、という橋爪さんの趣旨に全面的に賛成です。」

 

 

〇 「これに学んで、今後は同じ状況におかれても、この難関をクリアーし、誤らないようにする、という仕方を作り出すことだと思うんです。」と加藤氏は述べているけれど、今の情況は「国の不正がそこに生きる国民に自主的に判断されるだけの材料が与えられない」という点で、当時と同じになっています。

 

どうすれば、この難関をクリアーし、誤らないように出来るのか。

 

三権分立が機能していれば、司法が国の不正をチェックし軌道修正できるはずなのに、その司法が機能していない。

 

第四の権力と言われている報道機関も権力に取り込まれている

(安部官邸とテレビ)

 

本当に危ないと思います。

同じ過ちを繰り返す条件が揃いすぎています。