読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (解説_イヤな故郷)

〇 この前の投稿で、山本七平の「私の中の日本軍 下」終わりました。
その後に、安岡章太郎の解説が載っています。





「軍隊というのはイヤな故郷みたいなものだ_と明け方近くまでダベリ合ったあとで、友人が言った。何を話していても最後は結局軍隊のことになるのだからな_。実際、同年代の私たちは殆どが軍隊経験者であり、顔を合わせて話していると知らぬ間に軍隊が出てくる。そうなると、もう止め度がなくなるのである。(略)



思うに山本氏自身、単行本あとがきで、
本書は偶然の産物と言える。
と述べていることからも察しられるように、最初はこんなに長い軍隊論を書くつもりでもなかったのではないか。だいたい山本氏は、昭和四十七年、横井さんがグアム島の竹藪の穴の中から出てくるまで、軍隊のことを文章にして発表したことは一度もなかった。



だから雑誌「文芸春秋」に横井さんのこととフィリッピンの山の中のジャングルの籠城戦のことを織り交ぜた文章が発表されると私は、山本七平という人にこんなすごい野戦体験があったのか、と驚くと同時に、その迫力のある描写の筆力にも瞠目させられたものだ。」



「つまり、山本さんは自分がフィリッピンの山奥で苦労した話が書きたくて、これを書いたのではなかった。書いたのは、今度の戦争で大勢の兵隊が死んだが、それは無謀で愚劣な作戦に巻き込まれたためであって、何も「戦陣訓」に支配され拘束されていたためではないということが言いたかったのと、


それを何もしらないマスコミ・ジャーナリストたちが、さも「戦陣訓」が日本軍隊を魔術にかけて支配し、一人一人の兵隊はみんなそれにダマされて死んで行ったように、頭から信じ込んでいるのが我慢ならなかったからである。



山本氏のこの怒りの中には、現代のジャーナリストが、戦時中の日本人が大本営や当時のマスコミにダマされていたと思い込んで疑わないのは、実は彼ら自身、現在の日本人をマルめこんで指導している気になっているからだ、という思いもひそんでいる。そして次のように続ける。



これはいったい、何としたことであろうか。このままに放置しておいてよいのであろうか。われわれの世代には、戦争に従事したという罪責がある。もちろん、個々人にはそれぞれの釈明があるであろう。しかし釈明は釈明として、もしわれわれの世代が、自らの体験をできうる限り正確に次代に伝えないならば、それは、釈明の余地なきもう一つの罪責を重ねることになるであろう。



この山本氏の言葉に、私は共感を覚える。とくに私たちが次の世代に、自分たちの体験を正しく伝えなければ、<釈明の余地なきもう一つの罪責を重ねることになる>という一行には強く心に訴えてくるものがある。


「戦陣訓」に戻って言えば、私自身も一年半の軍隊生活で、「戦陣訓」を強制的に読まされたり、講義されたりしたことは一度もない。それは軍隊内で、いわば体よく無視されていたと言えるだろう。


しかるに現代のマスコミは、なぜ「戦陣訓」を重視したがるのか?それは山本氏も言うように「戦陣訓」は実は当時のマスコミにかつぎ上げられてマスコミの中だけで拡まっていたものであり、それは現代のマスコミにも体質的に通い合うものがあるからではないか。」






「ところで、この「私の中の日本軍」には、直接軍隊論に関係のないことでも、非常に印象に残る話がいくつかある。師団司令部でテーブルの上の軍事郵便のハガキを盗むことを描いた話は、その一つだ。



白いハガキに山本氏の手が無意識のうちに延びていくところ、その緊迫した場面で私は、奇妙なことに全然それと無縁な話を憶い出していた。ポーランドでは、きれいな絵ハガキで便りを出すと、必ず途中で盗まれて絶対に相手に届かないという。



これは社会主義国の市民道徳がいかに腐敗しているかという例え話なのだ…。そんな話が何で、山本氏が軍事郵便のハガキを盗んで、こっそり家に通信を送るというエピソードに結び付くのか?




何も結びつくものはない。
ポーランドの場合は綺麗な絵のある他人の通信を盗む話であるし、山本氏の場合は一般の部隊には配給されない白紙の軍事郵便ハガキが、司令部の中尉のテーブルにあるのを一枚だけ盗む話だ。



だが私は、この両者に共通したある精神の飢餓を感じるのである。両者とも、それは断じて道徳的腐敗などではない。傍の誰もが止めることのできない、傷ましいほどの心の渇きがそこにあるだけだ。             (作家)」



〇 安岡章太郎氏が書いた文章に、私はとても感動しました。
特に、最後の一行、「傍の誰もが止めることのできない、傷ましいほどの心の渇きがそこにあるだけだ。」という文章には、山本氏の心の痛みや傷口に言葉で繃帯を巻いているような、そんな温かみを感じました。

さすが、作家だなぁ、と感心しました。

また、「山本氏のこの怒りの中には、現代のジャーナリストが、戦時中の日本人が大本営や当時のマスコミにダマされていたと思い込んで疑わないのは、実は彼ら自身、現在の日本人をマルめこんで指導している気になっているからだ、という思いもひそんでいる。」

ジャーナリストは、事実を報道しているのではなく、「現在の日本人をマルめこんで指導している気になっている」のだ、という言葉を読み、今も全くそのまま同じことが続いているのだ、と思いました。


素直にマルめこまれて、ダマされて、何かあったら、騙されていた…と
誰かのせいにしていれば、それは責任がなくていいのかも知れませんが、
そのために、ノモンハン南京大虐殺のようなことが再び繰り返されるとしたら…と、考えてしまいます。


最後に伊丹万作の言葉を載せて、「私の中の日本軍」のメモを終わりにしたいと思います。



このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の 冒涜 ぼうとく、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような 脆弱 せいじやくな自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
 こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。