読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 下

 
「しかし、キリスト教の時代が終わっても、決してこうした困難がなくなりはしていない。全知全能の神への信仰と自由意志への要求をいかにして調整するかは、厳密にキリスト教的な大問題であったが、この大問題は、さまざまな回路をへて現代でも脈絡を
保っており、我々は、しばしば以前とほとんど同じ種類の論争と出会う。
 
〇「以前とほとんど同じ種類の論争」というのは、どこの国でもどんな状況でも
繰り返されるものなんだなぁとしみじみ思います。
 
 
「すなわち、自由意志の概念は、たんに、各々の倫理や法の体系の必然的な要請として使われるだけではなく、カントにおける<私は考える>やデカルトのコギトのような、(ベルクソンの言葉によれは)「意識の直接的与件」でもあるからである。
 
だから、それが実際に存在するかどうかということは、哲学伝統のなかではほとんど疑われたことがなかったのである。」
 
 
「自由な行為の試金石は、常に、我々が実際に行ったことを行わないままにしておくこともできたはずだ、ということを我々が知っているということなのである。」
 
「ともかく、事実の問題として、キリスト教の興隆以前には、我々は、いかなるところでも、自由の「観念に」照応する精神的能力の概念を見出すことはないのである。」
 
「目には見えない思考する自我は、この体と不可分に結びついたのみ我々に知られているにもかかわらず、厳密にいえば、どこにもない。」
 
 
「記憶は取り戻せない過去を、したがって、感覚には不在のものを現前させる精神の力であるが、精神が不可視なものを現前させる力を持っていることを常に示してくれる最もふさわしい典型的な例である。
 
こうした力を持っている点で、精神は現実よりも強みをもっているように思われる。つまり、精神は自分の力によって、万事がうつろうものだというそもそもの空虚さに対抗するのであり、この力がなければ滅んで忘れられるさだめにあるものを保存し、再び想起するのである。」
 
〇この部分が私たちの文化と決定的に違っていると感じました。
 
忘れ、水に流すことで立ち上がり、元気を取り戻しやり直そうとする私たち。
 
記憶には力があると考え、移ろうもの、空虚さに対抗しようとするアーレントの思想。
 
原発事故の時も、起こってしまったことをだれだれの責任だ、と責めてみてもしょうがない。これからどうするか、皆で考えよう、という論調があったけれど、
人を責めていじめたいのではありません。
 
なぜそのようなことが起こったのか、だれがどう行動したからこのような事態になったのか、
 
そこをしっかり見極めないと同じ過ちが繰り替えされるから、責任者をしっかり
「責める」必要があると思うのです。
そこをあいまいにして、みんなで一刻も早く忘れて水に流してしまっては、ダメだと思うのです。
 
そうでなければ、人類は永遠に愚かな戦いや愚かな失敗を繰り返し続ける。
その自覚が、移ろう空虚さに対抗する力になるのだと思うのですが。
 
でも、実際私たちの社会では、人々(特に権力者)はそのようには動かない。
そこが、私にはどうしてもわかりません。
 
 
 
「なぜなら、そもそも意志というものがあるならば― ただ、うんざりするほどの多数の大哲学者たちが、理性と精神の存在についてはけっして疑わなかったが、意志は幻影に他ならないと主張してきた― 、
 
意志は未来に対する我々の精神的器官なのであって、このことは、記憶が過去に対する我々の精神的器官であるのと同じくらいあきらかなことなのである(助動詞としての「will」が未来を示すのに対して、「to will」という動詞が意志行為を示すという、英語の奇妙な両面性は、的確に言えば、こうした事柄における我々の不確かさの証拠なのである)。」
 
 
「もし、意欲するという能力を、欲求や理性が提起したことをたんに補助的に遂行する器官として考えるなら別だが、自由でない意志というのは、言葉からしても矛盾なのである。」
 
アリストテレスの例をもちいれば、「真鍮の球」を作る職人は、質料と形相とを、つまり、真鍮と球とを相互に結合するが、この二つは、彼が仕事を始める以前から実在していたものなのである。」