〇 14 ニーチェによる意志の拒絶
「進歩という近代的概念からすれば、当然未来を我々に向こうからやってくるものとして理解するのではなく、我々がそれを意志の投企によって決定するものとして理解するようになるのだが、(略)」
「一方、今日「実存主義」と呼ばれるものの当初においては、こうした楽観主義的な雰囲気がなかったということは極めて特徴的であった。
ニーチェによれば、「すべての哲学者の根源的な誤り」は「歴史的感覚の欠如」にあるのだが、この欠如だけが、こうした楽観主義の生まれる理由を説明することができるのである。」
〇以前私が書いた、「世界人として未来を考える方向へ向かえないか…」みたいな考え方を指して、「楽観的」と言っているのかな。
ニーチェに関する言葉も分かりにくい。
「解放の感覚の強さは苦痛の感覚の強さとだけに対応しており、苦痛と結びついていない快と比べれば、いつももっと大きなものである。
極上のワインを飲んでの快でも、喉の渇き切った人がやっとのことで水を手に入れたときに感じる快に比べれば、比較にならない。」
「我々はもっとも困難な思想を生み出した_いまやこの思想を軽やかで至福なものだと思うような存在者を生み出そう。…過去を祝福するのではなく、未来を祝福するために。将来の神話を作り上げるために」。
〇神は死んだと言ったニーチェが「将来の神話を作り上げる」必要があると考えていたことがとても興味深い。
「もちろん、生が最高の価値あるものだということを証明はできない。意志が自由だというのはたんなる仮説にすぎないし、常識からする仮定なのだが、それが作られるのは、この仮定がなければf_くりかえしいつも言われてきたように_道徳、宗教、法律といった規範が意味を持たなくなってしまうからなのである。」
〇ここはとてもとても突き刺さるような言葉だと思う。
私たちの社会に「生が最高の価値あるものだという証明」「意志が自由だ」という仮説は定着しているのだろうか。
「この仮説がなければ、道徳、宗教、法律といった規範が意味をもたなくなってしまう」と「繰り返しいつも言われてきた」のに、私たちの社会では、そんな価値観について、語り合ったり共有しあったりする、「精神的広がり」がない。
「我々はもはや「行為の価値を…意図、我々の行動や生活の目的に帰させる」ことはできない。「…出来事において意図や目的の欠如していることが意識の前面に来れば来るほど」、「何事も意味がない」という結論は避けられないように見える。
というのは、「この憂鬱な文が意味しているのは「あらゆる意味は糸の内にあり、もし意図がまるごと欠けていれば、意味の方もまるごと欠けることになる」ということだからである」。」
「というのも、「人間は…自己矛盾せず、欺瞞的でなく、変化しない世界、真の世界を求めている…」からである。人間は正直なときには、ニヒリストである、すなわち、「現にある世界をそうあるべきではない世界と、あるべき世界を存在していない世界と判断する人」である。
〇う~~~~~~~ん…
もちろん、ニーチェの影響でそう行動したわけではないと思うけれど。