「ベルクソンに向かおう。彼は確かに自分より前の哲学者たちから影響を受けたのではなく、意識の直接的明証にしたがって、ハイデガーよりわずか数十年前に、二つの自己の<共‐存>、つまり社会的自己(ハイデガーの「世人」)と「根源的」自己(ハイデガーの「本来的自己)との<共‐存>を立てた。」
「良心によって人間はこの「負い目」を受け入れることを求められる。そして受け入れるとは、自己が一種の「行為」をするようになることを意味している。この行為は、論争上では公共的生活の「声高で」目に見える活動_真にあるもののたんなる泡_の対極にあるものだと考えられている。」
「この行為は沈黙におこなわれ、「自分の自己が負い目を感じつつ行為するようにさせられる」。そしてこのまったく内面的な「行為」によって、人間は投げ出されてあるという本来的な現実性に開かれるのであるが、この行為はただ思考の働きという活動の中でだけ存在しうるのである。」
〇またまた…う~~む…です。
つまり、声高で目に見える活動は「泡」なので、沈黙の中で思考すべきということ?
「いかに奇妙であり、結局は現象学的には明証的に説明されていないとしても、ハイデガーの良心分析は、根源的に負い目があるということの概念に含意されている人間の実存という端的な事実との結びつきを示しており、これはたしかに、彼の後の、思考と感謝との同一視に関する最初のヒントを含んでいる。」
「それらの詩は少なくとも、そうした肯定が、まったく世俗化された世界が無意味に見えることに対しての解決としていかに重要であるかを、示唆しているのである。」
「我々はレーテ(忘却)の冷水の中で思い出すだろう
大地は我々にとって無数の天ほどの価値があるということを
(オシップ・マンデリシュターム) 」
「親愛なる大地よ、私はしよう、私を信じたまえ、
私を味方につけるには、複数の春は必要ないのだ
一度の春、ああ、まさにたった一つの春でも、私の血にはゆたかすぎる
私ははるかから、名状しがたく汝へと決意した
汝は常に正しかった…
(ライナー・マリア・リルケ) 」
「そして最後に、私は注意を喚起するために、再びW・H・オーデンが約20年後に書いた詩を引用したい。
その驚くべき命令を
私は理解できない、
存在するものをまさに存在のために祝福せよ、
それには従わなければならない、というのも
それ以外の何のために私は造られたというのか?
同意するためか、不同意のためか?
近代の最終段階におけるディレンマに対する学問的な形式によるのではない証言のこうしたいくつかの例によって、おそらくハイデガーの著作が知識人共同体のエリートに対する非常に強く訴えるところがあった理由が説明できるだろう。
それは、「存在と時間」の出現以降いつも、大学においてほとんど異口同音に拒絶反応が生じたにも係わらずそうであった。」
すなわち誰かが存在の隠された意味を行為しつつ実現し、ものごとが破滅していく過程に対抗する健全な流れを提示するのである。」
〇本当に…まったくわからない…
「この変化をもたらしたものは、思考の働きと意志の働きとの古来からの緊張(これは「意志しない意志」によって解決されることになる)の断固たる徹底化であり、また、ヘーゲルの「世界精神」においてもっとも明瞭な形をとって現れた人格化された概念の断固たる徹底化である。」
「しかしこれとは別の、彼の思考と生活における、おそらくはより根本的でさえある中断がある。(略) この中断は、ナチス・ドイツの破滅的敗北と符合し、その直後の彼自身が大学の同僚と占領軍当局によって深刻な困難におちいったのと一致する。」
「同じ年にヤスパースがジュネーブでの有名なシンポジウムで表明したのは、同じ気分であった。「我々はまるで、まだ閉まっている門をノックして立っているかのように生きている…今日起こっていることがもしかしたらいつかある世界を設立するのかもしれない」。」
「この思弁的な文脈の中で、存在論的区別は、きわめて継続的な意味での存在と生成との間の区別において成立している。「存在がその真理を保持し」保護するのは退きこもりによってである。」
「「存在」が存在者の隠れなき状態を与えることによって、それは存在の隠蔽を[打ち立てる]」という一見するとパラドキシカルな言明にいたる。」
〇わからない…
「