〇 15 ハイデガーの「意志しない意志」
「今やこの「転回」は「存在と時間」におけるいわゆる主観主義に反対し、この著作が人間の存在様式である実存へ主たる関心を寄せていることに反対したのであった。」
「この意味で「転回」は、意志の拒絶とはほとんどなんのかんけいもない二つの重要な結果をもたらす。第一に思考は、もはや「主体的」ではない。(略)
第二に、人間は現象界にいるが、そこで出会うさまざまなもののために、その背後に隠れている存在から人間をそらされる。」
〇これについても、詳しくいろいろ書かれているけれど、よくわからない…
<力への意志>はついに、永遠に循環する生成が生と世界の無意味さから抜け出す唯一の道なのだとして「評価する」。」
「自己観察と自己吟味によっては、我々に自分の事故がけっして明るみに出るわけでないし、それがどうなっているかが分かるわけではない。
だが、意志することにより、また否と意志することにより、我々はまさにそれをする。(略)
意志することは常に、自己を自分自身にもたらすことである。…意志の中で我々は、我々が本来的にある自分自身に出会う…」。」
「(「ニーチェ」)第一巻の考えによれば、意志の働きのあらゆる活動は、命令があることで、反抗する意志を生み出す_すなわち、意志の働きはまずこの<意志しないこと>に打ち勝たねばならないのだが、その意志が働くときにはいつでも必要な障害の観念である_ことになるが、そのことが今度は一般化されてどの製作行為にもあるものだとされるのである。」
「意志は命令を発することによって自分を駆り立てる。すなわち、生ではなく、「<力への意志>が力の本質である。」
「未来というものは人々を忘却へと押しやるものだが、意志がこの未来にとりつかれているということに、意志の破壊的性格が現れている。
未来の主人になるという意味で未来を意志するために、人々は過去を忘れ、結局、過去を破壊しなければならない。
意志は「後ろ向きに意志し」えないというニーチェの発見から、挫折と恨みだけでなく、過去にあったことを無にするという積極的で活動的な意志も帰結してくる。」
「このラディアルなニーチェりかいにおいて、意志は本質的に破壊的である。」
「これらはすべて浮き沈みに満ちた人の世の出来事を予め決められた目標へ、すなわちヘーゲルの自由やカントの永遠平和、スミスにおける私利と市場経済の矛盾の調和あるいはキリスト教神学における究極の救済へと、目に見えないうちに導いていくのである。」
「人はたとえ自分の行為の動機が、彼自身の一定の計画や欲求そして情熱や目的であったにせよ、誰もひとりで行為することは出来ない、という単純な真理がある。」
「しかし決定的な違いがある。ヘーゲルがイエナにおいてナポレオンのなかに「馬にまたがった世界精神」を見たとき、彼はナポレオン自身はこの精神の化身であることに気付いていないことを知っていた。
そして彼が、短期的な目標や欲求や情熱が混じり合った普通の人間的な動機から行為していることも知っていた。」
「「(略)しかしながら言語は、思考や感情あるいは意志の働きの単純な表現ではけっしてない。言語は、人間存在が存在の呼び声に応答し、応答しつつ存在に属することが出来る本来的次元である。
思考の働きはこの本来的対応の現実化である」。」
〇むずかしい…