読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 下

「要約しよう。われわれは依然として存在論的区別、つまり存在と存在者との概念的な分離にぶつかっている。しかし、この分離はいわば始まりと終わりを持つ一種の歴史として知られている。


始まりにおいて、存在は自己を存在者の中に開示する。そしてこの開示は二つの対立する運動を始める。すなわち、存在は自己自身へ退きこもり、存在者は「漂い」、その結果、「誤謬の国(王国という意味での)」がなりたつ。この誤謬の国は普通の人間歴史の領分であり、そこでは事実に基づく運命が結合され「誤り」を通して首尾一貫した形態が作られる。


この図式の中にはどこにも、活動する人々の背後で演じられる「存在の歴史」のための場所がない。

存在はその隠蔽のうちに保護され、何の歴史もない。そして「世界史のあらゆる時期は誤りの時期である」。しかしながら歴史的領域における時間の持続は異なった時代へと散っていくという事実が、まさに諸実体の漂流がそれゆえ時期の中で起こることを示している。


ハイデガーの図式においては特権的な瞬間、ある時期から新しい時期への移行の瞬間が存在するように見えるのだが、それは真理としての存在が誤りの持続に介入し、「存在が画期をつくるという本質が現ー存在の脱自的本質を引き起こす」時である。


思考の働きは「運命への要求」を認識しつつ、この要求に応えることができるのである。すなわち、ひとつの時代全体の精神は、人間の日常的出来事の個々の誤りに道を迷わすことにならないで、「運命づけられていることに心をくだくことに」なるといってよい。

ハイデガーはこの文脈のどこでも思考と感謝との結合を論じていない。」


「そして、この人間存在が時間に限りある、はかない形で現前していることは、二つの不在の間のうろつきとして、誤りの国での仮の滞在として理解されるのである。」



「破壊者としての意志が、ここでもまた、名指しではないにしても現れる。それは「しがみつこうと」「押し通すことを切望すること」であり、法外な欲望に満ちた人間は、「自分自身に執着」しなければならない。

こうして彼らはまさに誤り以上のことをなすのである。「押し通すこととしてのうろつきは…単なる忍耐への反乱である。」この反乱は「秩序」に向けられている。つまりそれは「誤りの国」に「無秩序」を創造する。」