「この奇妙な革新をアウグスティヌスに期待することはできない。それが登場したのは、ずっと後になってのことであり、少なくとも倫理学の領域については、近代を特徴づける普遍的懐疑_私は、近代をニーチェが「懐疑の時代」と呼んだことは正しいと思うのだが_を、向こうにすることをいわば絶対的命令としたところで生じたのである。」
「人間はもはや神と神の創造を称賛することができなくなった時、概念的な努力のかぎりをつくして弁神論としてそれを正当化することに向かった。」
「自立的な「実態」が相互に根拠づけあう述語的関係の典型は友情である。(略)
一組の友人は、彼らが友人である限りは、統一、一者をなす。」
「(略)三位一体とはまったく異なっているこれら三つのこと、すなわち存在すること、知ること、意志することという私が語っている三つのことを考えるように」といっている。」
「アウグスティヌスが興味を持っていることは、もっぱら、精神的な「私」というものが、不可分でありながらも区別される三つのまったく異なったものを含んでいる、ということなのである。」
「つまり、「私は、自分が記憶、知性、意志を持っていることを覚えており、自分が理解し、意志し、記憶することを理解しており、自分が意志し、記憶し、理解することを意志するのである」。こうした三つの能力は同等であるが、それらが一つであることは、意志によるのである。」
〇ううむ~~~とうなりました。
確かに、「意志的でない人」というイメージの人はいます。記憶はいい(学歴がそれを証明している)、でも、意志は?と疑問符が付く人。
「意志は保持すべきことと忘れるべきこととを記憶に命じる。意志は、知性に、理解するために選ぶべきことを命じる。記憶と知性とは、ともに、観想的なものであり、そうしたものとして、受動的である。記憶と知性とを近傍させ、結局は「この二つを結合する」のは、意志なのである。」
「身体を支配する精神の力はこんなんにも大きいので」、たんなる表象によってでも、「生殖器官を刺激することができる」。」
「(ドゥンス・スコトゥス)(略)すなわち、意志の救済は、精神的なものではありえず、神の介入によっても生じない。救済は、行為のみから生ずるのであって、この行為は_しばしば、ベルクソンの巧みな句でいえば、「クーデター」のように_、[意志すること]と[否と意志すること]の抗争を中断するのである。
そして、この救済の代償が、我々が見るように、自由なのである。」
「そもそも、意志が精神的能力として存在しているのは、精神が「自己自身に満足せず」、「その必要と欠如のために、過度に、自ら自身の活動に集中するからである」。意志はどのようにして記憶力や知性を使用するかを決定する、つまり、意志は「記憶力や知性を何かほかのものに向けさせる」。
しかし、意志は、どのようにしたら「希望からではなく事柄そのものから生じる喜びをもって、それらを使用することができるのか」が判らない。
これが理由で意志はけっして満足しないのである。」
「(この論文を通じて、アウグスティヌスは、注意深く、思考することと知ることを、また、知恵と知識とを区別している。「自ら自身を知らないことと、自ら自身について考えないこととは別の事柄である」。)」
「愛がもたらすのは持続性であり、愛なしには精神が得ることのできないような永続性である。」
「要約しよう。アウグスティヌスは、この意志を孤立した能力として捉えているのではなくて、精神全体の内で機能しているものと捉えているのであって、この精神の中で、すべての個別的な能力_記憶力、知性、それに意志_が「相互に関係しあっている」のである。
この意志は自らが愛へと転換されることによって救済されるのである。(略)」
「人間は、正義が何たるかを知ることによってではなく、正義を愛することによって正しくなるのであり、愛は、魂の重力であり、あるいは、逆に、「身体の比重が、いわば、その愛なのである」。」
「つまり、ものあるいは人についてこれを愛すること、すなわち、私はあなたが存在することを欲している_私は愛する、すなわち、あなたが存在するように意志するということ以上に大きな肯定は存在しないということである。」
なんとか正当化しようとしているように見えます。
そして、多分、リルケの詩にも同じものがあるのでしょう。
神は死んだ。キリスト教で語られてきたことはもはや真理ではなくなった。
それでも、そこに人間が幸せに生きる道しるべを見てきた先人たちの姿を見るとき、
簡単に捨てられない何かがあると思ってしまいます。
何が大事で何がどうでもよいものか、アーレントもそこを考えているように見えます。
「