読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 下

アウグスティヌスは最初のキリスト教的な哲学者であり、さらに付言すれば、ローマ人が持った唯一の哲学者だと言っても良いと思う。その彼は、また、哲学上の混乱のために宗教にくらがえした最初の哲学者でもあった。」


「若い頃、アウグスティヌスは、内面的な分裂のために哲学にくらがえし、そして成人になってからは、哲学は自分に何も与えてくれなかったという理由から宗教にくらがえした。」


「幸福になるため以外には哲学する理由はない」という確信を持ったのは、ローマ人だけだったのである。」



「(略)これが難題なのは、時間がまったく日常的であると同時に、完璧に「隠されて」もいるからである。」


アウグスティヌスにとって大切だったことは、啓示された真理のために確実性を欠く哲学を捨てることなのではなく、自らの新しい信仰の哲学的意味を見つけることであった。」


「その中心問題は、悪の原因の探求である。」


「(略)パウロのように、細部にいたるまで、こうした二つの意志が彼の「内部で」どのように争い、また、それらの「不一致が[彼の]魂をいかにずたずたにひきさいたか」ということを書いている。

言い換えれば、彼は、善い意志と悪い意志、肉的な意志と霊的な意志といった、二つの対立する原理が世界を支配していることを教説とする、彼自身の初期のマニ教的な異端を慎重に避けているのである。」



「あるいは、もっと穏当に言えば、アウグスティヌス自身がかつて言ったように、恩寵の圧倒的な喜びがあるからこそ、善をなしえなかったことには価値があるのだ、ということである。」


「それは、「あたかも、理性によって完全な円が判った人間が」、自然のうちにこの完全な円を見つけることができなくて「失望するかのよう」である。彼は、円の観念を持っていることに感謝すべきなのである。」


ストア派およびキリスト教の思想の成立に先立つ世界の疎外によって、こうした正当化は、我々の哲学の伝統から追放されるに至った_しかし、詩人の思想からは完全には追放されなかったのである。」


「(略)不愉快なこじつけ的論証の様相を呈している。つまり、あたかも、この正当化が単純に、創造者である神への疑問の余地ない信仰からの必然的推論であるかのように、また、キリスト教徒は、創造の後は神の言葉を繰り返すように義務付けられているかのような具合なのである。」

「だから災いは半ば肉的で半ば霊的であるという、人間の二重の本性にあったのではなく、災いは、意志自身の能力のなかに見いだされなくてはならなかったのである。」


「この分裂は意志自身において生じる。」


〇少し本題から逸れるけれど、このように厳密に過去の思想家の「思考」を点検するエネルギーはどこから来るのだろう。

哲学は「知を愛する」という意味だと聞いたことがあるけれど、とことん突き詰めて考えなければ収まらない情熱があるのを感じる。

言ってることがよくわからないレベルの私としては、到底このような世界には立ち入れない。

ということは、このような世界に立ち入るためには、ある一定の知的レベルが必要だということになって、

私たちの国に、このようになんの「得」にもならないのに、突き詰めて考える文化がないように思えるのは、「そのレベル」の人々が少ない=この分野での知的レベルは低いということなんだろうか。


それとも、もっと違うところに原因があるんだろうか。