「今から四十年以上も前に、キリスト教哲学の復興に偉大な功績のあったエティエンヌ・ジルソンは、ギフォード講座の講師として…(略)おそらくは歴史に残る名著になった。
「中世哲学の精神」がそれであり、「すべての中世哲学の基本原理」を扱っている。」
「言い換えると、これらの中世の著作を研究する際に忘れてはいけないのは、著者たちが修道院の中に住んでいたということである。」
「スコラ哲学の著者たちが経験を用いるのは、議論を支持する実例を挙げる場合に限られる。経験そのものが議論の刺激になることはない。」
「(略)ここでは我々は「注釈者たちの時代」に入り込んでいるのであって、彼らの思考は常に何らかの書かれた権威によって導かれていた。」
「だからこそ彼らが全く本気で考えたところによれば、プラトンとアリストテレスが究極的な真実まで突き進むことのできなかった理由は、彼らが「創世記の最初の部分を読む機会」を持たなかったという不幸な事実があったからであり、「もしそうしていたら、哲学の歴史全体がすっかり様変わりしていたであろう」。」
「安らぐことのない精神に対して哲学体系が提供しようとしているのは、ある種の精神的避難所、安全な家であるのがつねであるが、それに成功したことはいちどもなく、私の考えでは、一つとして矛盾をまぬがれていない。
そういう家に入っていこうとするための相当な精神的努力をいとわない人に対して見返りとして与えられる保証は、そのような邸宅の中にいれば困惑することも疎外されることもないだろうということである。」
「レトリックも説得的論法も一度として使われていない。読者を強制するのは真理が強制する時だけである。」
〇以前、プラトンは数学の訓練を受けた人以外とは議論をしない、と言っていたと
記憶しています。
つまり、あの世界なのだと思います。
誰もが少しのズレもなく、同意できる真理の世界。
「強制してくる真理への信頼は、中世哲学において一般的なものであるが、トマスにおいては無制限である。
彼は三つの種類の必然性を区別する。
第一は絶対的必然性であり、これは理性的である。三角形の内角の和は二直角だというのが一例である。
第二は相対的必然性であり、これは有用性の必然性である。食べ物が生きるのに必要であり、馬が旅行に必要であるというのが例である。
第三は外側の行為者によって仕組まれる強要である。
そしてこれらの中で最後のものだけが「意志に逆らっている」。真理は強制する。しかし、意志が命令するように真理が命令するわけではない。そして真理は強要もしない。
これは後にスコトゥスが「理性の指令」と呼んだものであり、言語の形で下される能力であり、その力の限界は理性による交流の枠内にある。」
「(略)トマスは二つの「理解」能力、知性と理性を区別する。両者には、それぞれに対応した叡智的な欲求能力があり、一つは意志、もう一つは自由選択である。」
〇自分がそれほど知的レベルが高くない人間だという自覚を持ちながらも、日頃思っていることをこんな場所(ブログ)なので言ってしまいます。
ずっと感じていることなのですが、なぜ私たちの国では、「真理が強要」しないのか、ということです。
三角形の内角の和は二直角。私にはそれに匹敵するだろうと思えるほどの真理を
国の為政者が易々と踏みつけて、真理ではないと言うのを何度も聞かされたような気がします。
あの3.11の原発事故の後。