「それから彼は、なぜ、他の生物に加えて、また、それら以上に人間を創造することが必要であったのか、という問いに対して、非常に驚くべき解答を与える。彼は言う。新たなものが存在するためには、始まりが存在しなくてはならない、「そしてこの始まりはけっして以前には存在してなかった」、つまり、人間の創造以前には、存在してないと。」
〇この辺は結局あの「正当化」にしか見えない。
「アウグスティヌスは、「身体も魂も似た気質」の一卵性双生児の例を挙げている。
我々はいかにして彼らを区別できるのであろうか。彼らが相互に区別される唯一の資質は、彼らの意志なのだ。」
「しかし、人間は、時間的であって永遠ではないので、その能力は、もっぱら、未来に向けられていた。(アウグスティヌスは、どこで三つの時世について語ろうとも、我々が見たように、ヘーゲルと同じく、未来が優位に立つと強調している。精神的能力の中での意志を優位におけば、時間について思索する際に未来に優位な位置が求められる。)
一切の人間は、単独者として創造されているがゆえに、その誕生をもってして新たな始まりとなる。」
「自発性という自由は、人間の条件の確固たる一部である。この精神的な器官は意志である。」
〇「人間の条件」という言葉が問題になります。「人間失格」という小説もありましたけれど、どれほど「酷い」人間であっても、実はそれが人間なんだ、という所を出発点にしない限り、議論は積みあがりません。
でも、そんな「酷い」人間は議論などしようともしない。ということになって、「人間の精神の広がり」について考えることはできなくなります。
このアーレントが言うように、自発性という自由は人間の条件で、それをもたらすものは意志だということに、心から同意します。
でも、そうじゃない人間が大勢いる社会で暮らしている私は、じゃあ、いったい「なに」と暮らしているのでしょうか。
というより、私だって「なに」なんでしょうか…。