読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 下

「神が全能である(神が人間の意志を支配することができる)かぎり、したがって、神があらかじめ一切を知っている限り、人間の自由は、二重に抹殺されているように思われる。」


「古代世界、特に、古代ローマの精神風土にとって決定論および運命論が非常に大きな役割をはたしてきたので、以前に、我々は、それに賛成する議論で基本的なものを取り上げた。そして、我々は、キケロとともに、こうした思考様式が常に、矛盾とパラドックスに終わるのを見てきた。」


「「もし、私が飛行機の衝突で明日死ぬことが予見で着ているなら、私は、明日ベッドから出ないようにするだろう。しかし、そうなると、私は死なないであろう。しかし、そうなると、私は、未来を正確に予見してなかったことになるだろう」。」


決定論は、時間秩序の外側に立って、永遠という観点から出来事を観察する神のような預言者が導入される場合にのみ本格的に有力な議論となりうるのだ、ということを私は以前指摘した。」


「永遠というのは人間の言葉で言えば、永続する現在なのである。「もし、現在が常に現在であるならば…、現在は、もはや時間ではなくて永遠ということになろう」。」


「時間カテゴリーの中で考察されると、「過去の事柄の現在は、記憶の内にあり、現在の事柄の現在は、精神の直観[事柄を互いに結びつけそれらの「注意を払う」凝視]のうちにあり、未来の事柄の現在は、機体の内にある」。(略)


それらは、「未来から来て、現在を通って過去へと至る」というように互いに通っていくことによってのみ時間ができてくるのである。」


〇ここを読み直し、「時間は人間のみが持つもの」、という意味がやっと分かった。
いわゆる「思考」しないものにとっては、未来→現在→過去という流れは意味をもたない。

私は年を取ったということもあり、最近は意識的にその流れを忘れるようにして生きている。まるでただの動物のように現在だけを見て生きている。
そうすると、とても楽だ。

でも、その在り方は人間であることから逃げている、ということになるのかもしれない。


「注意力はすでに見たように、意志という重大な統一者の主要な機能の一つであって、この統一者は、ここで、アウグスティヌスが「精神の広がり」と呼んでいることの内で、時間の三時制を精神の現在へと結びつけていくのである。(略)

そして、精神の広がりなくしてはけっして全体とはならないであろう「人間の生涯においても同じことが行われ」、「同じことが[また]、人々のすべての生涯をそのうちに含む人の子らの時代のすべてにおいても行われる」、すなわち、この全歴史が連関している連続的な物語として数え挙げられうる限りは。」


〇以前、山本七平の本を読んでいた時、日本には中国の史記に比べられるような歴史書はない、と書かれていた(ような記憶がある)。

つまり、一人の人が一定の価値観で膨大な歴史をまとめ、それを社会が歴史書として
受け入れている書物、ということなのかな、と思うけれど、

私たちの国では、今だって、現代史に関しては、受け止め方が全くまとまらない。

「すなわち、この全歴史が連関している連続的な物語として数え挙げられうる」ということがない時、私たちには国民みんなで共有する「精神の広がり」がないことになってしまわないのだろうか。

共有できる価値観は多分あるのだろうけど、とても分かりにくい。見えにくい。共有できる精神の広がりがなく、意志を表明することから逃げるのが大人とされている私たちの社会は、とても生きるのが難しい社会だと感じる。