〇 今の日本の状況を考えると悲観的な気持ちばかり大きくなります。
そして、誰かかしこい人、私たちを助けて~!と叫びたくなります。
私から見て、この内田さんは、そんな風に助けを求めたくなる「賢い人」に
見えます。
引用文は「」で、感想は〇で記します。
「(略)
この本にはもっぱら「そのようなこと」が書かれています。
つまり、人間が語る時にその中で語っているのは他者であり、人間が何かをしているときその行動を律しているのは主体性ではなく構造である、というのが本書の主な主張であります。
むろん、これは私の創見ではありません。これは半世紀ほど前にフランスの構造主義者たちが言い出したことです(これが副題のいわれです)。
私が彼らの書物を読み始めたのは六〇年代の終わりのことです。その時は彼らが何を言っているのかぜんぜんわかりませんでした。高校生の私は「私が語っている時に、私の中で「他者」が語るなどというバカなことがあってたまるか」といささかとげとげしい気分になったのでした。
貧しい知識と経験しかなかった割には、「私」の存在の確かさについてはどうやら深い確信を有していたようです。
ところが、その後、馬齢を重ねるにつれて、どうやら自分の話していることの殆ど全部が「他者の言葉」であり、ここはこうふるまわなければと強く感じているときに規矩となっているのは「他者の教え」であるということがしみじみ実感されてきました。
もし、私の個性というべきものがあるとしたら、それは「他者たちの言葉」のうちのどれを選択的に口にし、「他者たちの教え」のうちどれを優先的に配慮するかという「選択問題」でしかなさそうです。そして、私たちが選択を許されているオプションの数は明らかに有限なのです。
現に、私は今こうして文章を書いていますが、これを書いてからしばらく時間が経ってからもう一度見直した時に、「どうも私の言いたいこととは違うことが書いてあるような気がする」と思った場合には、ばっさりと削除して、違うことを加筆するはずです。
ですから、皆さんが今ここに読んでいる文章は最初に私が書いたものとはまったく別のものである可能性が高いのです。
でも、これってちょっとおかしくありませんか。
「今、私がぜひ申し上げたいことがある」という場合に書いたことを、いくら同名の筆者とはいえ、それを書いてから数日後、場合によっては数年後になってから、勝手に削除したり加筆したりする権利があるでしょうか。(略)
けれども、それだったら「晩年に痴呆化してしまった人間」についてはどうしたらよいのでしょう。その人はその生涯を痴呆になるために粛々と歩んできたとみなすべきなのでしょうか。若い時からのすべての発言を「痴呆の潜在的病態」として理解すべきなのでしょうか。
それでは気の毒です。
時間的に後から来たものがすべてを支配する、というのは歴史主義的な考え方です。
歴史主義という以上、それは時間という要素を最優先に配慮する思想のようですけれど、実はここには時間という要素はほとんど関与しておりません。
というのも、これまでのすべての時間は現在のうちに萌芽的に含まれており、過去の意味は現在において開示されるというのが本当なら、現在以外のすべての時間はもとより考慮に値しないからです。
ヨーロッパの人々がアジアやアフリカを植民地化して、現地の人たちを虐殺したり、奴隷化することが出来たのは、「未開人」たちは自分たちと同じ進化の歴程の「前の段階」にいると思ったからです。
自分たち「文明人」は「未開人」の段階をすでに通過して、「未開人」の持つすべての価値すべての意味をかつて一度持ったことがあり、それを乗り越えて現在の文明状態に達したという「物語」を信じ切っていたからこそ、「文明人」たちはあれほど「かつての自分」に対して残忍でありえたのです。
構造主義はこの歴史主義の野蛮に対するつよい嫌悪に動機づけられて生まれた思想です(だから、「構造主義は歴史主義よりえらい」というふうに言うと、歴史主義に戻ってしまいますから、ここは「歴史主義より後から来たものですけれど、「後から来たからい」というようなことは言わない思想です」というふうにご紹介しておきます)。
構造主義は時間の広がりと深みを重んじます。
私とは違う時間の中に生きている人に世界はどのように見えているのか私にはよくわからないという謙抑的な知性が構造主義者を特徴づけています。
ですから、彼らはあふれるような好奇心と敬意を以て「よくわからないもの」に接近します。
構造主義者が最初に出会う「よくわからないもの」は自分自身です。
私はどうしてこんなふうに考え、こんな風に感じ、こんなふうな言葉遣いをするようになったのか。私の知性と感性はどんなふうに構造化され、どんなふうに機能しているのか。それを私はうまく言うことができない。
この無能の自覚が構造主義的知性の最初の足場です。
「私は知っている」ではなく、「私にはよくわからない」から始まる知性の活動、私はそれが構造主義だと理解しています。
勿論私のような定義をしない人もいます。それはそれで少しも不都合がありません。だって、「どうして私は構造主義をこう定義し、他の人はそうしないのか?」というのはすでにすぐれて構造主義的な問いだからです。(略)
時間を超えて決して変化することのない同一の精神が同一の命題を同一の文体で書き続けているものなんか、みなさん読みたいですか?
私はちょっとご遠慮したいです。
さいわい本書中にはいろいろな時間の「内田樹」が書いたことが渾然と混じり合っています。その温度差や遅速の差や濃淡の差が、ある種の「和音」を響かせて、みなさんがそれを聴き取ってくださったらいいなと思います。(略)
「こんな日本でよかったね」というのは、高橋源一郎さんの「こんな日本でよかったら」(朝日新聞社、一九九六年)への「アンサーソング」です。(略)
私の「こんな日本でよかったね」は高橋さんほどフレンドリーではありません。もうちょっと挑発的です。
だいたい無文脈的に、いかなる論拠も示さず、「こんな日本でよかったね」と断言するというのはあまりに自分勝手です。
ですから、このタイトルを一読した方は、思わず「そんな訳ないだろ」という「応答」の言葉を口にしてしまうはずです(私なら間髪を容れずに突っ込みます)。
つまり、タイトルを糸読した時点において、すでにして筆者と読者の対話は開始せられているわけです。「読者参加型タイトル」というアイディアにおいて、おそらく出版史上に類書を(少ししか)見ない奇書と申し上げてもよろしいかと思います。
ではまた「あとがき」でお会いしましょう。」
〇「構造主義」というのが、どういうものか、まるでわかりません。でも、ここで内田氏が言っている、「人間が語る時にその中で語っているのは他者であり…」とか、「私はどうしてこんなふうに考え、こんなふうに感じ…」とかの言葉は、私にもとてもよくわかるような気がします。
実際、読み始めてみると、全然何を言ってるのかわからない文章と、
とても興味深く読んだ文章にはっきり分かれました。
メモするのは、きっと興味深い文章だけになると思います。