読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 下

「普遍的な存在は思考にすぎず、実在性を欠いている。「このもの性」で特徴づけられる個物だけが人間にとってリアルなのである。(略)

したがって_以下のことが決定的なのだが_精神に描かれた像がなければ、そのものがなんであるかを知りえないとはいえ、精神に描かれた像(見られている木)は現実的存在を欠いているのだから現実の木よりも存在論的に低次の状態にある。

この転倒の帰結として、例えば実際に存在しているこの特定の人間は、人類という種
あるいは人類という概念よりも高度であり、先行している、ということになる。
(後代になってキルケゴールが似たような議論をヘーゲルに向けている)。」


アウグスティヌススコトゥスの場合には、トマスの場合と違って、この個別性を現実のものとする精神器官は意志なのであった。」


「トマスに戻ろう。「知性と意志とが、各々の対象の普遍性に関して相互に比較されるならば…絶対に知性の方が意志よりも高次であり高貴である」と彼は断言する。」


「知性の優位をトマスが主張したことの本当の理由は_意志の優位をアウグスティヌスが採択した最終的理由と同様に_、すべての中世思想家たちの究極の問い、すなわち、「人間の究極の目的と幸福とは」どういうことにあるのか、という問いに対する答えが証明しようがないからである。」


「しかるに、トマスは(略)人間の最終的目的と幸福が「神を知ることにではなく神を愛することに、つまり何らかの意味での神に対する意志に」あると考える人もいるかもしれないが、トマスの主張によれば「目的である善を所有することとそれを愛することは同じではない。(略)本質的に、人間の究極的幸福は知性によって神を知ることである。それは意志の行為ではない」。」


〇最初にギリシャ哲学があり、「知への情熱」による蓄積があるところに、キリスト教的な価値観が合わさり、「人間の究極的な目的や幸福」を追求するようになったところが決定的に東洋の精神文化とは違うのだろうな、と感じます。


「空の空」「諸行無常」と流し去って諦めてその状況の中に平安を見る文化と、「究極の幸福」を考える文化ではまるで違います。

ただ、ここにきて、地球環境にとってどっちが良い存在かというと、案外、東洋のあり方の方が、地球を破壊しない持続可能な在り方だったかもしれないと思えて来ます。


人間がそれほど「進歩」しない方がいつまでも環境にやさしい生物でいられたのかもしれないと。

でも、東洋の人と西洋の人では、西洋の人の方が幸せそうに見えるのは、私の浅はかさ故でしょうか。

でも、そんなことを言ってみてもしょうがない。ここまで来てしまったのだから、せめてここから先はしっかり知性を働かせて、世界人としてどうするか、という流れになってほしいものだと思います。