読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 下

「現世で何を欠いているかはともかくとして、来世で何を所有したいのかという欲求の概念に、トマスの欲求的能力の概念が依然として(ある意味で)依存しているということをトマスも明らかにしていると思われる。

というのは、意志は、基本的には欲望として理解されるのであって、欲求された対象が所有されるに至った時には停止するものなのである。」


「意志が愛へ変容することを_ドゥンス・スコトゥスの場合だけでなくアウグスティヌスの場合もそうなのだが_促しているのは、少なくともまず一つには意志を欲求、欲望から分けることであり、もう一つには、「人間の最終的目的と幸福」という別次元の考えなのである。」


「それゆえ、人間の立場で言えば、観想とは「何もしないこと」であり、純粋の直観によって祝福されており、至福の休息状態である。

幸福とは「余暇次第である。なぜなら、[実践しているのであれ制作しているのであれ]忙しくしていることの目的は余暇を得ることであり、戦争をするのも平和を得るためである」。


トマスにとっては、最終的目的_観想という至福_だけが必然的に「意志を動かす。」「意志はそれを意志しないことはできない。」それゆえ「意志が知性を動かすのは、行為者が動かすと言われるのと同じような意味においてであるが、知性が意志を動かすのは、目的が動かすというのと同じ意味である。」」

〇「トマスにとっては…」以降がわからない…(*_*)


「ただ見ているだけで何もしないという意味での観想をひたすら目指していたトマスが結局はどのような極論にまで進もうとしていたのかが明白になるのは、二人の人格の間の人間的愛についてのパウロの文章について解釈を施している時にトマスが何気なく漏らしたコメントにおいてである。

トマスによれば、結局パウロが言ったのは「その人は神の喜びへと至る手段として友人を受け止めた」ということなのであり、すでに論じたように、神は人間の意志や愛で到達できるようなものではなく、知性によってのみ到達しうるのである。」

「もちろん、これはアウグスティヌスの愛からは遠く隔たっている。(略)

カントから学んで「自分のであれ、他人のであれ、人間性をけっして手段としてだけではなく、同時に目的として使用せよ」というのを義務と強く確信している人の耳にとって、トマスの言葉は相当に不快であろう。」


〇以前も書いた「仏教では善行を行う(功徳を積む)と、来世でよい位に付ける。」という話を創価学会の人が教えてくれましたが、

自分がよい位に付くために、功徳を積む(人に親切にする)のであれば、カントのいうように、その人を手段として使ったことになると思うのです。

そこがとても嫌な感じがしました。そして、なぜその人はそのことを「嫌な感じ」だと思わないのか、と思ってしまうのです。

そんな時、その人とは「その程度」の距離で係わるしかない、と感じてしまいます。

私の周りには、そんな人の方が多いので、「その程度」の距離で付き合う人ばかりになってしまいます。