読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 下

「私は思弁的思考活動のばか騒ぎのことについては既に話した。それは知性の認識能力を超えて思考したいというカントの理性の欲求を解放しようとするところから始まったが、その後を継いだドイツ観念論者は概念を人格化して遊びとしてしまい、科学的妥当性があるのだと要求した。

しかし、それは、カントの「批判」とははるかにかけ離れたものになってしまった。
科学的真理という観点から見ると、この観念論者たちの思弁は、えせ科学であった。


今ではこのスペクトルの反対の端で、何か同様にえさ的なものが進行しているように思われる。唯物論者たちは、コンピュータやサイバネティクス、オートメーションの助けを借りて、この思弁のゲームを行う。彼らの外挿法によっては、観念論者のゲームのような幽霊ではないが、しかし心霊論者の降神会の場合のように、[精神の]物質扱いが行われる。

この唯物論者のゲームにおいて非常に驚くべきことは、その結果が観念論者の諸概念に似ていることである。こうしてヘーゲルの「世界精神」は近年、大型コンピュータのモデルとして造られた「神経システム」の構造に物質化を見出した。すなわちルイス。・トーマスは、世界規模の人間の共同体を一つの巨大頭脳の形で捉えることを提案している。


この頭脳はきわめて敏速に考えを取り替えるので、「人間のたくさんの頭脳は、しばしば機能的に融合を被っているかのように見える」。その「神経システム」としての人類と共に、こうして全地球は「複雑に相互にかみ合った諸部分からなる、呼吸する有機体…となる」。
そしてこの一切は、惑星の大気という保護膜の下で成長している。


こうした考えは、科学でも哲学でもなく、SFである。
それらは広範に普及しているが、唯物論者の思弁の途方もない考えはドイツ観念論者の形而上学という愚行とまったく同じである。ということを明瞭に示した。こうした虚偽すべての共通点となっているのは、それらがf唯物論者のであれ観念論者のであれ、歴史的に進歩の観念とそれに伴う人類と呼ばれる証明しようのない存在から引き出されたということを別とすれば、同じ感情的機能を満たすということである。」


☆(236pの2行目~237pの1行目まで)

〇胸の深いところにストンと落ちるような納得できる内容。
知性的で頭の良い人がこうなりうる、ということを指摘し、
それは間違っている、と指摘しているところがうれしい。