読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 下


「だから、キリスト教徒自身は、自らの定められた必然的な生の終焉の彼方に、ある未来を持っていたのである。そして、未来の生のための準備との密接な関連で、パウロが初めて、意志を発見し、未来がいかに複雑であっても意志が必然的に自由であることを
発見したのである。」

「つまりギリシア人の自己了解によれば、(略)<私は意志する>ではなくて、<私はできる>、これが、自由の基準だったのである。」

「まず第一に、意志の能力の存在そのものが幾度も繰り返して否定されてきた。」

「そして、スピノザも同様に考えていた。すなわち、なにか外的な力によって動かされた石は、「もし自らの努力を意識出来て」「思考することができれば」、「自分が完全に自由であると信じ、自分自身の意欲に基づいてのみ運動を継続できると思うだろう」と。」


「こうなると、人は、主観的には自由でありながら、客観的には必然性によって制約されていることになる。」


〇(スピノザの文通相手の反論)「主観的には自由でありながら、客観的には必然性によって制約されているといったことが認められるなら、あらゆる邪悪な人間が免罪されることになるだろう」


スピノザは、「邪悪な人間が、必然からして邪悪だとすれば、けっして恐ろしい存在でもなければ有害でもない」、と応答するのである。」

「だが、ホッブズと同じように、ショウペンハウアーも意志を否定はしないが、やはり意志が自由であることは否定する。つまり、意志の働きを経験するときには、人は、自由だという感情を幻想的に持つというわけである。」


〇う~ん…
意志があるかどうかについて、真剣に考えるという発想自体に驚いています。
私などは、そんなものは、あって当然と思っていました…。

しかも、それが自由か必然か、ということについてこんなにも多くの思想家が
議論を積み重ねているということにも驚きました。

もし、必然だとなると(必然の反対は自由と言ってた意味がここにきてわかる)
その人の意志で行った「悪行」も必然だったということになります。

その人がその人である限り、そのような悪行を行うのは必然だったということになって、スピノザの文通相手が言ったように、どのような悪もその人の責任ではない、
ということになってしまう。免罪されることになる。

正直、ここの部分には、かなりの衝撃を受けました。


現在、世界の多くの国で、死刑はおこなわれなくなっています。
特に、ヨーロッパの国々では行われていない、と聞いたことがあります。

その根拠が、このような議論の上に成り立っているのだろうと思いました。